『内在神への道』にツッコミ! |
書 名 |
内在神への道 |
著 者 |
伊勢白山道 |
出版社 |
ナチュラルスピリット |
価 格 |
1800円(税別) |
出版年月 |
2008年3月 |
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●本書概要 |
教祖様が「2ちゃんねる」や自らのブログで発表した内容をまとめたもの。
最強の祝詞の紹介や、先祖供養の方法、今後訪れる「弥勒の世」や有名人の前世など内容は多岐に渡る。
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●ツッコミ |
こうやって、まとめられてしまうと、教祖様がその場の勢いや思いつきで話しているのがよく分かってしまう。
また、自らの霊能力を根拠にした発言は、前世やあの世の構造など、基本的に検証できないものばかりで言ったもん勝ちであるが、一方で、明らかにおかしな発言も見られ、教祖様の霊能力には疑問を抱かざるを得ない。
具体的には以下の通り。
根源神を頂点とした「山」の頂上へ行く登山道は沢山あります。登山道が違えば、途中で見える景色も違います。途中の見える景色の違いで、互いに非難し合ってはいけないし、その景色に囚われてはいけません。行き着く頂上は、一つです。ただ、その登山道には、「回り道」も「近道」もあります。私は、一番の近道は、色々な問題を抱えながらも、今の状態に「感謝」する気持ちだと感じます。(P.19) |
と言っているのだが
Q・・・「世界人類の平和を祈るように」とある教祖は言いました。如何でしょうか?
A・・・これは、大きな間違いです。内在神も自覚できないで、どうして他人や世界のことを願えるでしょうか?自分自身が目覚めてないのに、神や世界のお節介をすることができますか?自分自身を生かしきっていないのに世の為どころか世間のお荷物にならないことが精一杯です。(P.33) |
と、「世界人類の平和を祈る」という手段は完全否定。「登山道は沢山」あるのではないのか。また、「途中の見える景色の違いで、互いに非難し合ってはいけない」のではないのか。世界人類の平和を祈る過程で自分自身が目覚めていければ、それで良いだろう。
口では綺麗事を言っているが、それを自分では実行できていない。言行不一致である。
迷える先祖霊には、子孫が自己の立派な生き様を見せるだけでは、成仏させることはできません。苦しいことは苦しく、寂しければ寂しいのです。子孫を見て、学ぶ余裕がありません。生きている人と同じです。飢えている子供に、満腹の大人が、「私の笑顔を見なさい。笑顔は素晴らしいよ。」と言うようなものです。迷える先祖霊には、実践的に、感謝の想いを捧げることと、線香を捧げてあげることが、最も楽にさせてあげて、新たな気づきを先祖霊に与えることができます。(P.71) |
「飢えている子供に、満腹の大人が、『私の笑顔を見なさい。笑顔は素晴らしいよ。』と言うようなもの」という例えで、先祖霊に自己の立派な生き様を見せても成仏させることはできないとしているが、「飢えている子供に、満腹の大人が感謝を捧げ」ても同じことだろうに。
例えとして成立していない。
釈尊が伝えたかったことは、単純なことです。「現状を受け入れ、感謝すること」です。(P.73)
一番伝えたかったことは、現状を受け入れて、「感謝」による成仏方法だったと感じています。(P.268)
不思議ですが、釈尊は太陽信仰だったんです。(P.267) |
釈尊が伝えたかったことが「現状を受け入れ、感謝すること」だとは恐れ入る内容である。しかも、太陽信仰だったとは。
学術的研究から、ある程度、原始仏教の姿は明らかになっているが、釈尊が「感謝」を説法の中心に据えていたなど聞いたことがないし、太陽信仰なんかも当然ない。いくら、現在に残っている経典が後世に歪められ、追加されたものだとは言っても、最も伝えたかったものが消され、伝えられないわけがあるまい。
しかも、釈迦は「四苦八苦」という言葉があるように人生を苦と定義しているのだから、現状を受け入れるどころか現状否定である。また、もし、現状を受け入れることを説いたとしたのなら、弟子達に出家させたりなどさせなかっただろう。出家は人としての生活を捨てること、即ち、現状否定に他ならない。
なお、現状を受け入れることや太陽信仰を主張しているのは教祖様自身である。教祖様が自分を釈尊と同格であると勘違いし、自己の姿を勝手に釈尊に投影しているだけだと考えた方が、この主張の説明がつくであろう。
モーゼは、3000年以上前に来日して、現在の伊勢神宮多賀宮の本殿の下に有名な十戒石を埋めています。最後は帰る途中に石川県で亡くなっています。(P.99) |
なかなかのトンデモ話である。
旧約聖書の申命記では、モーゼは120歳でモアブの地で死亡、ベト・ペオルの前にある谷に葬られたことになっている(申命記34:5-7)。また、歴代誌には、ソロモン王(在位紀元前965年
- 紀元前925年頃)の時代に契約の箱の中には2枚の十戒の石板があったと記されている(歴代誌下5:10)。
おそらく、この霊視結果は、トンデモ古代史が綴られた竹内文書の影響を受けているのではないかと思われる。(※参考:Wikipedia竹内文書)
竹内文書、及び、それを世に出した竹内巨麿の主張では、モーゼは十戒石を持って日本を訪れ、天皇にそれを献上、その後、シナイ半島に戻ってイスラエルの民を導いた後、再び来日して能登宝達山で583歳まで過ごし、三ッ子塚に埋葬されたことになっている。
教祖様の霊視結果と竹内文書とで、モーゼが十戒石を持って来日し、石川県で亡くなったとしている点で一致しているのが分かるであろう。
また、「十戒石」という表現も、竹内文書の影響を受けてのものであると思われる。通常、「十戒石」は「十戒の石板」と言われる。旧約聖書でも「石板」と記述され、また、「両面に書き記された石板で」(出エジプト記32:15)と、「両面」という表現がなされているから、ただの石ではなく石板なのである。
一方、「十戒石」という表現をとるのが竹内文書であり、竹内巨麿は、板状ではない石に文字が刻まれたものを十戒石として保有し、本物であると主張していた。
霊視したと言うより、「竹内文書の内容に、少し自分なりのアレンジを加えただけ」と言った方がふさわしい内容である。
モーゼも、もっと掘りやすい場所に埋めておいてくれれば、容易に霊視結果を検証できたのに残念である。(検証できないからこそ、言い逃げができるのであるが)
私は、幼稚園児の時に、大きな神社に行くと不思議でした。牙が沢山ある怪獣に、人々が小銭を投げつけて祈る姿に。現代風に言えば、△×組本部事務所のドアのチャイムを何度も鳴らし、出てきた組員に小銭を投げつけて、私の希望を頼むと涼しい顔しているようなもんです。依頼者がお金を持ってると思われたら、優しい顔で希望が叶うように動くでしょう。だが、その後はただでは済みません。霊的存在も同じです。〜(中略)〜どんな神にも組員にも、感謝の表現は問題になりません。(P.134) |
「どんな神にも組員にも、感謝の表現は問題になりません」と言っているが、△×組本部事務所のドアのチャイムを何度も鳴らし、出てきた組員に感謝を表現したら、「なんや、よーわからんが、そんなに感謝しとるんやったら、それを形で表わさんかい」とすごまれたら、どうするつもりだろうか。
相変わらず、例えが下手で「感謝は問題ない」という説明ができていない。先にも、似たような例えがあったが、このような例えで説明できたと思っているのだろうか。
「神」のことを我々人間が把握することはできません。不可知な存在です。「神」を説明し始めた時点で間違いを犯しているでしょう。ただ、人間は弱いものです。「判らない」だけにしておくと、「神」を讃え、大事にする気持ちが続きません。私が今までの感応により感じてきた「神」のホンの一面を書かせて頂きます。
まず、神界の姿は「根源神」一つから分神していき、ピラミッド状のヒエラルキーを形成する姿です。この根源神には名前がありません。名前が付いた時点で、人間に感得された存在であるので根源神ではありません。ただ、生み出す「存在」のようです。(P.137) |
矛盾だらけの文章。神を不可知とし、人間に感得された存在は根源神ではないとしながら、一方で、自分が感応により感じてきた神のホンの一面を書こうとしている。著者が感じた時点でそれは根源神ではないのであろう。
この根源神から、エホバ、アッラー、天照太御神・・・・などのエネルギー体が分神し、国や人種に感応して「現れ」ていきました。たとえば、天照太御神は根源神の分身の一つから、さらに、その天照太御神が分神して行きました。エホバ、アッラーも、同様に分神し、聖霊を生み出して、それぞれの世界を形成しております。(P.137) |
エホバとアッラーを別の神として扱っているが、コーランでアッラー自らが述べているように同一神である。
おそらく、現在のキリスト教とイスラム教の対立状況から、別の神であると勘違いしているのではないかと思われる。
「短冊と線香による感謝供養」は、実際の力を呼ぶ方法なので各人が自己判断と自己責任により判断されて、実行するか否かを決めてください。決して、勧めているわけではありません。(P.184) |
自己判断と自己責任で実行してくれと責任逃れの為の発言。何らかの問題が発生するような方法ならば、個別指導方式で行うべきであろう。少なくともネットや書籍などで一般に発表すべきではない。
また、一方で、
皆さんの中にも、霊ウンヌンを気にして怖がる方がいますが『生かして頂いて ありがとう御座います』は、魔物さえ溶かします。なにも心配要りません(P.146)
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と語っている。こっちでは、「なにも心配要らない」と太鼓判。
さらに、教祖様は、
人は、迷える可哀想な先祖をほっておいて、いくら神を求めても無駄です。可哀想な存在を無視していい寄って来る人間を、神は助けません。(P.88)
この世で自己的なことで幸福を呼びたい時は、先祖を感謝念で安心させるのが一番早く実現します。(P.88) |
とも語っている。ここまで言っておいて、よくも「決して、勧めているわけではありません」などと言えたものだ。
その場限りで適当なことが言っているのが、よく分かるであろう。
Q・・・幽界は消え龍も消えているのに、先祖供養は有効というのがよくわかりません。先祖霊も幽界でしょう。いっしょに消えたりはしていないのですか?
A・・・幽界は現在、半分ぐらいに縮小していると感じます。上層の幽界から消滅してます。龍は幽界でも上位の眷属なので、正しい正神界のお使いとしての龍は、正神界へと上昇し、神霊と同体化しております。特別な任務のある龍神を除いて。
現在の肉体を有している間は、やはり我々は弱いもので、悩みは尽きません。覚醒するには、根源神・自己の内在神・守護霊(先祖霊)の三要素の発露による恩寵が必要と感じます。霊界の先祖も、神界に神上がりするか、現実界の子孫と同体化していくかの選択が始まってます。正しく生き、先祖供養する心のある人間には、これからは先祖霊が沢山寄り、その人の守護霊団となります。これは、強力です。その個人には。先祖の寄れない人との差は、この世的には大きくなります。
幽界・・・・・消滅(一部の存在は、神界へ)
神界、霊界、地獄界は、現実界に転写移動していき、最終的に、「根源神一つ対我々」となるイメージです。(P.191) |
「幽界が消えるのなら先祖霊も消えて、先祖供養は無駄なんじゃないのか?」という、教祖様の教えの矛盾を突くいい質問である。
それに対して、教祖様は、「幽界は消滅している」や「霊界の先祖は神上がりするか、現実界の子孫と同体化」などといった説明だけで、結局、幽界の先祖霊がどうなるのか分からない。「人は、迷える可哀想な先祖をほっておいて、いくら神を求めても無駄です」と言っているくらいだから、先祖供養の主な対象は幽界で迷っている先祖であろうに。
質問に対する回答として成立していない回答である。
また、教祖様は、幽界で迷っている先祖についての回答はせずに、「先祖霊が沢山寄り、その人の守護霊団となります。これは、強力です」と先祖供養の効用はアピールしている。
結局、先祖供養の目的は自分の守護霊団を強力にする為ということだろうか。
しかし、一方で教祖様は、
私は、守護霊ウンヌンは、あまり関心が無いです。頻繁に本人の心がけで交代しますし、幽界の話が多いので。それより、日常のアタリマエに感謝することが、最重要と考えます。守護霊・人格神を凌駕します。(P.171) |
とも語っている。「根源神・自己の内在神・守護霊(先祖霊)の三要素の発露による恩寵が必要」と語ったり、「守護霊ウンヌンは、あまり関心が無い」と語ったりと場当たり的な発言である。
教祖様は、自分の主張している内容をあまり理解できていないのではないだろうか。
Q・・・未来予知は可能?
A・・・私は無理だと思います。理由は努力で変わるからです。中には、努力できるか、しないかまで運命で決まってると言われる方もいますが、無理がありますね。もし未来が確定しているなら、我々は映画フィルムの1コマで、無限ループしているだけですね。そこには、感動がないです。(P.208) |
予知は無理だと回答。
しかし、何故、未来が確定していると無限ループになるのか、全く理解できない。未来が確定していることと、同じことを繰り返していることとは繋がらないと思うのだが。
そして、一方で、教祖様は、
ノストラダムスが観たヴィジョンをリーディングしたところ、観えた光景は、現代のジャンボ・ジェット機を真下から見る光景一場面のみが観えました。〜(中略)〜私には、彼が見たのは911テロだったのではと感じています。(P.310) |
予知は無理だと言いながら、ノストラダムスは予知できていたことになっている。
大丈夫ですか?教祖様!?
私の霊眼に映るキリストの姿は、痩せこけたオドオドする男性です。一見、頼り無さそうな、母性本能をくすぐるようなタイプです。二千年後の自分自身の評価・歴史を、キリスト自身が一番驚いているでしょう。キリストが天にいる父と呼んだ神は、国常立太神であり、キリストを背後から支えた、女性マリアは天照太御神の分霊を宿した人でした。霊性的には、キリストよりマリアが上です。キリストは人間でした。この人間キリストを天から援助した神が、国常立太神であり、地上で援助したのが天照太御神の霊を宿す神懸りの女性、マリアだったのです。(P.265-266) |
キリストより母マリアの方が、霊格が上らしい。母マリアが天照太御神の霊を宿す神懸りの女性ならば、聖書にその神懸りっぷりが出ていてもおかしくないと思うのだが。母マリアは裏方に徹して人間キリストを前に押し出したということか。それならそれで、人間キリストが説法を始めた際、人々から気が狂ったと聞いて母マリアと兄弟達が連れ戻しに来るなど(マルコ3:10,31)ありえないと思うのだが。
そもそも、母マリアの方が霊格が上なら、母マリアが直接、人々に法を説いた方が手っ取り早いだろうに。
もしかすると、教祖様は、カトリックの聖母マリアへの崇拝ぶりや、ルルドの泉などの奇蹟譚などの影響を受けて、キリストより母マリアの方が霊格が上であるとの印象をもったのかも知れない。
ちなみに、教祖様は聖書を読んだことが無いそうだ(P.267)。
以上、なかなかに矛盾する発言が目立ち、霊視結果も明らかにおかしいと分かるものも散見される(それ以外の霊視結果は、単に、真偽の検証が不可能なだけ)。
なお、教祖様は、人々に感謝を推奨し、
私は、一番の近道は、色々な問題を抱えながらも、今の状態に「感謝」する気持ちだと感じます。(P.19)
『ありがとう御座います』は、魔物さえ溶かします。なにも心配要りません(P.146) |
などと言っているが、感謝に何も問題がないわけではない。
「感謝」という言葉の本質を知るためには、その対義語である「怨嗟」とともに、考えると分かりやすい。「感謝」は「ありがたいと思う気持ち」で、「怨嗟」は「恨み嘆くこと」という意味である。
そして、「感謝」というものは、対象に対して何か良い点を見つけて感謝するものであり、一方、「怨嗟」は、その反対で、対象に何か悪い点を見つけて、怨嗟するものであると言えよう。
例えば、道路が陥没していて自分の車が事故ったとしても、「感謝」なら「このような事故にあったのは、日頃の自分の慢心を戒めるために違いない。神よ、感謝します!」になる。
一方、例えば、知り合いからプレゼントをもらったとしても、「怨嗟」なら「何か裏があるに決まっている!こんなことで、ありがたいなどと絶対に思わないからな!」になる。
「感謝」を、とことんまで突き詰めて行けば、何が起こっても、何か良い点を探し出して感謝するようになり、問題点を問題点だと認識しなくなるのである。
ここに、多くの宗教団体が感謝を推奨する理由の一つがあると言える。
例え、心霊治療で病気が治らなくても、「心霊治療を行って頂けただけでも、ありがたい」になるし、また、教祖様の予言が外れても、「私たちに警告を与え、心の準備を促すためだったのだ。ありがとうございます」などとなる。
感謝を推し進めれば、悪い点は無視して、何が何でも良い点を見つけ出して感謝してくれるようになるのである。これほど、御しやすい信者はいないだろう。
以上、何事も極端というものは良くないものであり、感謝についてもそれは当てはまるのである。
感謝の心を持つことは悪いことではないが、極端になってしまうのは気をつけた方が良いであろう。特に、宗教における感謝は、盲信、狂信につながりやすい。
2010.11.15 新規
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