教祖様は、座敷童子で有名な緑風荘を以下の通り霊視した。
《2009年10月6日ブログ本文より》
東北地方に在る、座敷童子(ざしきわらし)で有名な旅館が全焼しました。
報道で以前の和室の写真を観ますと、床の間の正面に向かって右手の辺りに、青色の帯をした着物姿のオカッパ頭の男子が居るのが分かりました。
もともとは、土地の精霊が童子の姿で、床の間に寄っていただけの様です。床の間には、土地の精霊が寄り易い機能が存在します。
(注:青字にしたのは管理人)
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緑風荘は、座敷童子がいると言われていた有名な旅館で、TV等で度々取り上げられてきたのだが、2009年10月4日の火災で中庭にある座敷童子を祀った祠を残して全焼してしまった。
教祖様の霊視によると、この座敷童子は「もともとは、土地の精霊が童子の姿で、床の間に寄っていただけ」らしい。
しかし、伝承では以下の通りである。
1300年(南北朝時代)、南朝の武将が北朝(足利尊氏)方との戦いに敗れ落ち武者となり奈良から東京都あきる野市(五日市町)に落ち延びこの地名を名字とした。
しかし、この地は関東の勢力範囲内でそこからさらに南部藩(金田一)に落ち延びる。この時6歳と4歳の男の子がおり、金田一までたどり着くと同時に兄の亀麿(かめまろ)は病にかかり死去する。死の床で「末代まで家を守り続ける」と言い息を引き取った。
この亀麿の霊が奥座敷「槐の間」に棲みつき「家の守り神」となり、時々客人に姿を見せたりいたずらをするようになったと言い伝えられている。この部屋に泊まり座敷わらしに出会えると驚くほどの幸運に恵まれ男は出世し、女は玉の輿にのると一般的に言われている。
(※Wikipedia「緑風荘」より)
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ちゃんとした伝承が残っていて、教祖様の霊視とは異なっている。
しかし、この伝承が正しいか否かは検証不能なので、残念ながら、明確にどちらが正しいとは言えない。
まあ、伝承の方が具体的で、説得力という点では上であろう。
そして、検証しようがない座敷童子の霊視でやめておけば良いものを、教祖様はさらに、床の間の起源について霊視をし出す。
《2009年10月6日ブログ本文より》 ※上記の続き
床の間の起源を私なりにリーディングして観ますと、やはり祭事と関係して来ます。
現代の様な立派な書院造りではなく、稲作を営む農家において、部屋の隅に床面よりも1段高い場所を設けて、そこにゴザを敷き、その上に収穫した稲を置いて感謝をした様です。
その感謝を捧げた場所には、稲の精霊(天照太御神の分霊)が寄ったのです。収穫した稲が寄り代の機能を果たしました。その行為を行ないますと、次の年も豊作に成ると言う縁起が広まったのが、床の間の原型だと感じます。
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どうやら、床の間の起源は、「稲作を営む農家において、部屋の隅に床面よりも1段高い場所を設けて、そこにゴザを敷き、その上に収穫した稲を置いて感謝をした」のが始まりらしい。
はい、ハズレ。
「床の間」の起源は、押板である。
押板とは、南北朝時代に造り始められた座敷飾りで、壁下に作り付けた奥行きの浅い厚板のこと。掛け軸をかける壁に置物や陶器などを展示する机を併合させたものである。
そして、当時、床と上段との間に押板をつけるのが普通であったが、茶室の発生と共に上段と押板が縮小されて一つになり、今日の「床の間」になった。
(※参考:Wikipedia「床の間」、コトバンク「押板」、『日本語源大辞典』(前田富祺・小学館))
よって、「床の間」の起源は、最初から、掛け軸や陶器などを飾るための場所であり、農家だとか稲だとかは全く関係ないのである。
それをよくもまあ、「その行為を行ないますと、次の年も豊作に成ると言う縁起が広まった」などと想像を膨らませたものである。
つうか、通常、豊作の祈願ってのは村などの単位で行うものであって、家単位で行うものではない。家単位の豊作祈願が後の建築様式に影響を与えるほど広まったとは、恐れ入る想像である。
座敷童子の霊視でやめときゃいいのに。
2010.12.17 新規
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