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主観と客観(その2)
※当記事は(その1)からの続き。


2.主観で考えていい事といけない事

 主観客観の言葉の意味をさぐる前に、まず、
「主観で考えていい事といけない事」について考えてみよう。

 例えば、
「科学的な事実」。これは主観で考えてはいけない事である。
私は地球を中心に太陽等の星々が回っている方が格好いいと思うから、天動説を支持します。
 科学とは客観が要求されるものであるので、このような「格好いい」などという個人の感じ方を元に結論を出すことは、完全にNGである。

 そして、上記の主張を聞いて、
「なるほど、その通りだ。天動説が正しい!」なんて思う人はいないだろう。普遍性のない考えであるからだ。

 一方、
「今日の晩御飯」は、主観で考えていい事である。
今日はなんとなくカレーを食べたい気分だから、晩御飯はカレーを食べます。
 こちらの「なんとなくカレーを食べたい気分」というのは個人の感じ方であるが、基本的にこの主張を誤りだと言う人はいないだろう。カレーを食べたければ、勝手に食べればいいのである。(※この人の家族で、同じものを食べることになる場合などは異論が出るケースもあるだろうが)

 では、「科学的な事実」「今日の晩御飯」では、どのような違いがあるのだろうか。

 それは、
正解があるか否かである。

 「科学的な事実」というものは、たとえ今は正解が分からなくても、正解は存在する。一方、「今日の晩御飯」というものには正解はない。

 なお、「今日の晩御飯」であっても、
「その人が健康面に問題があって、栄養等を考慮した食事を採る必要がある」というような場合は、その観点から、一定の範囲内で晩御飯を決める必要があるケースがある。

 その場合は正解があるので、主観ではなく、客観的な判断が要求されることになるが、一方で、その範囲内であるのならば主観で考えていいことになる。

 例えば、小麦アレルギーなら、客観的に考えて小麦を原材料に使用したものは食べることができない。主観
「今日はどうしても、うどんを食べたい!」と思ってもNGである。一方、原材料に小麦を使用していない食事であるならば、何を食べるかは主観で決めればいいことになる。

 この場合の正解
「小麦を原材料にしたものは食べてはいけない」であり、その条件さえ守れば、何を食べるべきかの正解はないからである。


 また、
「本当は正解はないけれど、社会の合意の上で正解が決められている」というものもある。

 例えば、「人の命は尊い」だ。

 この命題は、科学的に立証されたものではないし、今後、証明されることもないだろう。せいぜい、もっともらしくその正当性を説明する以上のことは出来ないものだ。

 ただ、「人の命は尊い」というのは、
普遍性のある個人の考え方・感じ方として社会で認められている。ごく一部に特殊な人がいて、時に否定されたりもするが、その場合は、普遍性のない個人の考え方・感じ方として社会に否定される。

 そして、その社会の承認・合意のもと、「人の命は尊い」は正解であるとされ、それを前提とした主張は、前提の証明は不要である。
「尊い人の命を奪っておいて、そんな謝罪では許されない!」
 例えば、このような主張があった場合、「『そんな謝罪』が許されないか否か」が論点になることはあっても、「人の命が尊いか否か」が論点になることはない(※先述したように、ごく一部の特殊な人が論点として持ち出す場合はあるが)。
<参考> 「論点」については以下の記事を参照
○記事「論点 (その1) 1.論点とは」 〜(その9)

 それは、「人の命は尊い」が社会の承認・合意を得て、正解だとされているからである。

 なお、この「人の命は尊い」は、全世界の社会で合意を得ている共通の価値観である(※ひょっとすると、アフリカやアマゾンの未開の地では、そのような価値観を持っていない社会があるかも知れないが)。

 しかし、「人の命をどの程度、尊いものとして扱うか」については、全世界共通というわけではない。

 例えば、死刑だ。世界では死刑を廃止した国もあれば、死刑を実施し続けている国もある。日本は後者であるが、死刑に反対する個人・集団もいたりして、完全に社会全体の合意がとれているとは言えない状況であり、今後、死刑が廃止になる可能性もある。

 このように、
個人の考え方・感じ方が普遍性を持つと判断されるか否かは、社会の合意のもとで決められ、中には正解がまだ決められていない事柄もあれば、地域によっても異なり、また、時代によっても変遷するものなのである。
※「正解がまだ決められていない事柄」
 例えば、尊厳死。今のところ日本では認められていないが、それが「社会的な合意を得ている」とも言えない状況である。
 今後、各個人の考え方・感じ方が出されて議論された上で、社会的な合意が形成されていくと思われる。

 (参考) Wikipedia「尊厳死


 以上を(その1)で記載した言葉の意味を考慮してまとめると、
<主観で考えてはいけない事(客観で考えるべき事)>
(正解がある事〉
○本当は正解はないが、社会の合意としての正解がある事(これから合意が形成されて行く場合も含む)

 ・・・ 個人の考えや感じ方で論じて良いが、普遍性が求められる(*)。


○上記以外の正解がある事(例:科学的事実、歴史的事実・・・)

 ・・・ 個人の考えや感じ方から独立した考えが求められる。
<主観で考えて良い事>
(正解がない事〉
 ・・・ 個人の考えや感じ方で、考えて決めて良い。


(*1) 「個人の考えや感じ方で論じて良いが、普遍性が求められる」

 具体例をあげると、次のような主張である。

自分は、他人の飲酒運転で子供を奪われているので、個人的心情としては、飲酒運転するようなヤツは全て死刑にして欲しい。

しかし、そこまでは行かずとも、飲酒運転の厳罰化は必要ではないか。
 前半部分が「個人の考えや感じ方」に基づく意見。後半部分が、そこに根差しつつも、より普遍性を考慮した意見となる。
となる。

 さらに、これを、正解の有無を基準にして表にすると以下の通りである。
正解有無 正解あり 正解なし
社会的に正解の合意あり 社会的に正解の合意なし
科学的事実、歴史的事実・・・ 慣習、マナー、刑罰・・・ 晩御飯に何を食べるか、どのサッカーチームを応援するか・・・
主観or客観 客観 主観
個人の考えや感じ方NG。 個人の考えや感じ方OK。
 ただし、他人の考えや感じ方も考慮した上で、普遍性をもたせる必要あり。
 このように、社会的な合意で決められている場合も含め、正解がある場合は客観で考え、そうでなければ主観で考えてOK。

 また、一口に客観と言っても、
「個人の考えや感じ方を排除する考え方」「自分も含め他人の考えや感じ方を考慮した上の考え方」の2パターンあるのである。

 なお、この2つの客観を区別する為、便宜上、以降では前者を「完全客観」、後者を「主観的客観」と呼称することとしたい。




 ※(その3)へ続く



2016.11.22新規

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