目の中の梁 〜「欲」によって自らの目を曇らせる人達〜

 新約聖書には次の言葉がある。
『マタイによる福音書』 7章3-5節 
 何故、あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の(はり)(*)には気がつかないのですか?

 兄弟に向かって、「あなたの目のちりを取らせてください」などと、どうして言うのですか? 自分の目には(はり)があるではありませんか。

 偽善者たち。まず自分の目から(はり)を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

(*)「梁」・・・建物の水平方向に架けられ、床や屋根などの荷重を柱に伝える材のこと。
 ここで、イエスが語っている、「目の(はり)とは具体的には何なのか、また、「目に(はり)が入った状態」とはどんな状態なのか。

 当記事では、それらについて考察して行きたいと思う。



1.目の梁とは

 
「目に(はり)が入っている」。言い方を変えれば、「目が曇っている」と言ってもいいだろう。

 いったい、目に入る「(はり)」とは、そして、目の「曇り」とは何なのだろうか。


 結論から言えば、
目に入って曇らせているもの、それは、「欲」である。

 その「欲」を、より具体的に示せば、例えば次のようなものである。
○自分が偉い人間だ、立派な人間だと思いたい
○自分の間違いを認めたくない

 この、目の中に入って曇らせる「欲」は、「執着」と言った方がより、ふさわしいかも知れない。

 そして、人は、このような「欲」という(はり)が目に入っている時、物事を正しく見ることができず、歪めて捉えるようになる。

 なお、この「欲」という(はり)は、他人から入れられたり、また、偶然、入ってしまったものではない。自らの意思で自分の目に入れたものである。この「欲」は、他人のものではなく、自分のものなのだから当然であろう。

 
「自分は偉い人間だ、立派な人間だと思いたい」が為に、また、「自分の間違いを認めたくない」が為に、自ら望んで目に(はり)を入れるのである。

 そうやって、自分の目を見えなくし、曇らせることによって、いつまでも、
「自分は偉い人間だ、立派な人間だ」「自分は間違っていない」と思い続け、自らの「欲」を満たしているのである。



2.目に梁を入れた状態(その1)

 明らかに誤っているのに決して間違いを認めない人、また、傲慢で独善的な人などは、世に数多く存在し、誰もがその具体例を一人や二人、簡単に思い浮かべることが出来るのではないかと思う。

 そのような人たちは何故、決して間違いを認めずに居られるのか、また、何故、傲慢で独善的で居られるのか。

 それは、上で述べたように、自分の目に(はり)を入れているからである。

 次に、この、「目に(はり)を入れた状態」だと、人は、具体的にどのような行動を取るのか見てみよう。


 その行動を簡単に言えば、

   
「自分に都合の良いもののみを見て、都合の悪いものは見ない」

である。

 例えば、
「自分は立派な人間だ」と思いたい時には、自分が他人に親切にした時などのことを思い浮かべて、「ああ、やっぱり、自分は立派な人間だ」と思って満足する。
 一方で、自分が会社でライバルを追い落とそうと陰湿な画策をしていることなどは思い浮かべない。そんなことを思い出すと
「自分は立派な人間だ」と思うことが出来なくなるからだ。

 また、例えば、子供に対して「他人の悪口を言ってはいけません」と叱る一方で、自分は近所の人の悪口を嬉々として言っている母親がいたとする。
 そんな母親は、自分が子供に対して「他人の悪口を言ってはいけません」と言っていることを思い浮かべて、
「ああ、自分はちゃんとした大人だ」と思って安心し、一方で、自分が嬉々として他人の悪口を言っていることは忘れている。

 このようにして、
「自分に都合の良いもののみを見て、都合の悪いものは見ない」から、いつまでも、「自分は立派な、ちゃんとした人間だ」と思っていられるし、また、それに反する行動も平気で取っていられるのである。


 偽善者が、自分を偽善者だと気付かない理由、それは、自分の目に(はり)を入れて自分の偽善的な部分を見ないからだと言えよう。

 ただし、偽善者は、自分の偽善的な部分を暴かれると、激しい怒りを示して、必死になってそれを否定しようとする。

 せっかく、自分の偽善的な部分を見ないようにして自分を誤魔化し、
「自分は立派な、ちゃんとした人間だ」と思って安心しているのに、あえて、そんな部分を見せつけられ、自分の偽りの安寧を崩されるのが気に入らないのである。

 そして、それに抵抗する為に、激しい怒りでもって相手を威嚇して、相手の主張を封じ込めようとするのである。



3.目に梁を入れた状態(その2)

 前節では、「目に(はり)が入った人間」がとる行動は、「自分に都合の良いもののみを見て、都合の悪いものは見ない」と記載した。

 基本的には、この通りなのであるが、実際はもう少し複雑である。

 そして、それは特に、自分に都合の
悪い情報に接した場合に現れ、その行動は大きく分けて、以下の4つのパターンが考えられる。
@.見ない
A.一部のみ見る
A.過小評価する
B.無理やり否定する
 順に説明して行こう。

@.見ない・・・自分に都合の悪い情報は一切見ないパターン。

 もし、自分の主張の誤りを指摘されても、その指摘を無視するか、見ても、右から左へとスルーしてしまえば、本人にとってその指摘は存在しない。よって、「自分の主張は正しい」と思い込んでいられる。

 ちなみに、このパターンでは、「全く無視するケース」「視点をずらして見ないケース」がある。

 後者は例えば、「アイツは私の人気に嫉妬してあんなことを言っているんだ」と考えて、指摘そのものは無視する場合である。これは、視点を、指摘している人に移して、指摘そのものから目を逸らしているのである。

A.一部のみ見る・・・自分に都合の悪い情報の本旨は無視して、どうでもいい、端っこの部分のみを見るパターン。

 本旨を見てしまえば自分の主張に都合が悪いので、その情報の中のどうでもいい部分のみを見る。そして、その部分を否定することによって、情報全体を否定できた気になって自己満足する場合である。

B.過小評価する・・・自分の都合の悪い情報を一応、見るには見るが、過小評価して取りあわないパターン。

 例えば、本来、自分の主張を取り下げなければならないような指摘を受けても、「些細な誤りだ」、「単なる揚げ足取りだ」などと考える。
 指摘内容を歪め、過小評価して捉えることによって、自分の主張を維持するのである。

B.無理やり否定する・・・自分の都合の悪い情報を、非論理的な反論や詭弁によって否定するパターン。

 仮に、自分の主張に対する正当な批判であっても、無理やりそれを否定するので、その批判は無かったことになり、やはり、「自分の主張は正しい」と思い込んでいられる。


 以上が、自らの目に「欲」という(はり)を入れた人間が、自分に都合の悪い情報に接した場合に取る行動パターンである。

 なお、自分に都合の
良い情報の場合は上記の逆で、過大評価したり、矛盾点は無視したりして称賛することになる。


 このようにして、「目に(はり)が入った人間」は、自分の主張・考えが正しいと思い続け、自己の誤りを認めることを拒否し続けるのである。

 よって、「目に(はり)が入った人間」を説得することは非常に困難であると言えよう。どんな正論を突きつけようが、無視したり、歪めて捉えたりして取りあわないからである。

 ちなみに、
どの程度まで拒否し続けられるかは、その人間が目に入れた(はり)、つまり、「欲」の強さに比例することになる。
 その「欲」が強ければ強いほど、常識をはるかに逸脱した、執着を見せつけることになるのである。



4.「目に梁を入った人間」の思考順序

 次に、「目に(はり)が入った人間」の思考順序を見てみよう。

 自分の目に「欲」という(はり)を入れた人間は、当然、その思考順序もおかしいものとなる。
 それは以下のような順序である。なお、これは、「Aという事柄が、真か偽か」を考えた場合である。
(1).判断(自分の欲求・都合との突合)
Aが「真」か「偽」のどちらであれば、都合が良いか?
Aが「真」であれば、都合が良い。
                         
(2).結論
よって、Aは「真」だ。
                         
(3).情報収集
@.「Aは真」に都合の良い情報のみを収集。
A.都合の悪い情報は、基本的に見ない。
B.「Aは真」が正当化できたと思った時点で、情報収集終了。
 このように、「目に(はり)が入った人間」の思考順序は、「(1).判断 → (2).結論 → (3).情報収集」というものになる。

 順に説明して行こう。

 まず、(1).判断であるが、「目に(はり)が入れた人間」の場合、一番最初に判断がなされる。

 例えば、
「自分は立派な人間である」という命題があった場合、まず、この命題が「真」か「偽」のどちらであれば都合が良いかを考え、その後、「『真』であれば都合が良い」という判断がなされる。
 誰でも、自分が立派な人間であると思いたいものであり、その「欲」、「欲求」に基づいて判断が下されるのである。

 次に、(2).結論で、(1).判断でなされた判断に基づき、結論が下される。
 例で言えば、
「『自分は立派な人間である』は、『真』である」という結論がなされる。

 最後に、(3).情報収集で、(2).結論で下した結論に都合の良い情報のみが収集される。
 例で言えば、次のような情報のみ集められ、
○この前、部下のミスを大目に見た
○この前、部下の欠点を指摘してやり、部下の成長に貢献した
○街角で募金活動をしていたら、大抵募金をする
○町内会の活動にも積極的に参加し、人付き合いが良い
この情報収集は、自分が「(2)で出した結論を正当化できた」と思った時点で終了になる。(※あくまで、自分が「思った」時点なので、第三者から見ると、とても正当化できたと言えないようなケースでも終了となる)

 そして、一方で、次のような、結論に都合の悪い情報は基本的に無視される。
○自分に責任が及ぶようなミスを部下がしたら、烈火のごとく怒る
○ライバルを追い落とそうと、陰湿な画策をしている
○女性の部下にセクハラをしている
○町内会に嫌いな人がいて、仲間はずれにするよう、他の人を誘導している
 ちなみに、「目に(はり)が入った人間」が、自分に都合の良い結論しか出さないとは限らない。何故なら、情報収集の段階で正当化に失敗すれば、さすがに、その結論は取り下げざるを得ないからである。


 以上が、「目に(はり)が入った人間」の思考順序であり、当然ながら、このような「結論ありき」の考え方は誤りである。
 自分の都合の良し悪しのみで結論を出し、その後で、恣意的な情報収集を行って自己満足しているだけである。

 そして、彼らの主張を飾る根拠は、その主張に都合の悪い情報を無視し、都合の良い情報のみをかき集めただけのもの.。 彼らの主張は、自分の「欲」をもっともらしい理屈で正当化する為のカモフラージュに過ぎず、結果として、首尾一貫しない主張や矛盾のある言動を行うことになるのである。



5.正しい思考順序

 次に、正しい思考順序というものも見ておこう。それは以下の通りとなる。これも、「Aという事柄が、真か偽か」を考えた場合である。
(1).情報収集
Aに関する情報を収集する。
                         
(2).判断
集めた情報をもとに総合的に判断。
                         
(3).結論
「Aは真だ」、もしくは、「Aは偽だ」
 このように、正しい思考順序は、「(1).情報収集 → (2).判断 → (3).結論」となる。

 特に説明するまでもなく、当たり前と言えば、当たり前の話である。

 なお、前節で記載した、誤った思考順序は「(1).判断 → (2).結論 → (3).情報収集」になっていた。
 この思考順序は、本来、最初に行うべき情報収集が最後になり、先に結論を出してしまっているのがおかしいのである。



6.目に梁の入った教祖と信者たち

 上述のような、目に「欲」という(はり)が入った教祖や信者たちは、世に数え切れないほどいる。

 教祖の場合、その「欲」とは、
「自分が偉大な人間だと思いたい」「自分が特別な人間だと思いたい」、また、「偉大なはずの自分が、誤っているとは思いたくない」などと言うものである。

 そして、目に(はり)が入って、誤った思考方法で出した結論を、真理だとして信者たちに提示する。


 大した霊が降りて来たわけでもないのに、「偉大な霊が語りかけてきた」などと思ってしまうのは、
「自分が特別な人間だと思いたい」という「欲」があるからである。

 大した教えでなくても、「宇宙の真理だ」とか、「世の中を変える真理だ」などと思ってしまうのは、
「自分の教えが、すごいものだと思いたい」という「欲」があるからである。

 何も分かっていないのに「分かった」などと思ってしまうのは、
「自分は分かっていると思いたい」という「欲」があるからである。


 最初に記載したイエスの言葉通り、他人の目のちりを取ろうとする前に、まず、自分の目の(はり)を取り除くべきであろう。

 自分の目に「欲」という(はり)が入っていることにさえ気付けず、その「欲」に基づいて考え、行動して、いったい、どうやって人々を導けると言うのだろうか。また、いったい、どこに人々を連れて行けると言うのであろうか。

 目に(はり)が入っているから、本当は自分のことすら、まともに見えていないのである。まず、そのことを知って、己の目の(はり)を取り除くべきであろう。

 ただし、
そのような人間は、自分の目に(はり)が入っているからこそ、自分の目に(はり)が入っていることには気付かない。

 仮に、「自分の目に(はり)が入っているか」と自分自身に問いかけたとしても、
「自分の目に(はり)が入っているとは思いたくない」という「欲」でもって、「自分の目に(はり)は入っていない」という結論を出し、自己満足して終わってしまうからである。

 そして、目に(はり)を入れたまま教祖を続け、世に悪影響しか与えていなくても、勝手に
「世の為になっている」「世を良くしている」と思い込み、社会にとってマイナスの人生を歩んで行くことになるのである。


 一方、そんな目に(はり)の入った教祖を盲信する信者たちにも、同じように、目に「欲」という(はり)が入っている。

 その「欲」とは、
「自分のした『この教祖は本物だ』という判断が、誤っていたとは思いたくない」「他の人にも勧めてしまったので、誤っていることを認めて、その責任を負いたくない」などと言ったものである。

 このような「欲」に縛られ、信者たちは、他からの批判を無視したり、過小評価したりして、盲信を続けて行くのである。

 まさに、「類は友を呼ぶ」と言ったところだろうか。



8.まとめ

 以上、聖書の記述をもとに、「目に(はり)「目に(はり)が入った状態」について考察してきた。

 このような、目に(はり)の入った人たちに、どんなに素晴らしい教えを与えても無駄であると言えよう。

 彼らは、ある部分ではその教えを実行し、他方では、平気でその教えに反したことをする。そして、せっかく学んだ教えを無駄にしてしまうのだ。

 しかし、そんなことをしている一方で、彼らは教えをきちんと守れている気でいる。
「自分はきちんと教えを守れていると思いたい」と言う「欲」でもって、そう判断しているからだ。


 世の中には、このような「目に(はり)が入った人間」が掃いて捨てるほどいる。

 彼らは、自分の「欲」を実現する為に行動しているにも関わらず、「人々のため」、「社会のため」などと誤魔化しの美辞麗句で擬装し、あまつさえ、自分の行動が正義だと勘違いしている。

 また、彼らは、他から誤りを指摘されても決して認めようとせず、詭弁を使ったり、激しい怒りで威嚇したりするのはもちろんのこと、時には、権力などの手段を使って批判を排除し、自分の「欲」に基づいた主張を実現しようとする。

 このような人間が世の中に掃いて捨てるほどいて、世の中が良くなるわけがないであろう。彼らが世の中を迷走・混乱させる元となっているのである。


 私たちは、「欲」から離れて、客観的に己を見詰めることのできる目を養わなければならない。

 そうでなければ、自らの「欲」によって、物事をありのままに捉えることさえできないし、また、歪んだ考え方しかできないからである。


 
正しいことをやっているつもりで実際には誤ったことを行い、また、前に進んでいるつもりで実際には後退している。

 「目に(はり)が入った人間」がよく行っていることであるが、そんな愚かな状況は避けなければならない。

 そして、世の中を構成する一人一人が己の目の(はり)に気付き、取り除いた後にこそ、世の中は、前に向かって着実に進んで行くことが出来るようになるのである。




2011.6.7新規

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