「縄文時代の埋葬方法」にツッコミ!・・・伊勢白山道さま

 教祖様によると、縄文時代は、共同墓地で遺体の上から土を被せる土葬だった。場所的に限界になると遺体を上に重ねて小山となり、それが古墳の原型になったらしい。

●詳細&ツッコミ
 
 以下のものは、「全ては1つに帰る」と題された教祖様のブログ記事の抜粋である。
《2009年6月4日ブログ本文より》
 では、日本に仏教式の御墓が広まる以前の死者への対応はどうだったのか?
 
縄文時代頃から、合同の墳墓だったと感じます。
 
住居から離れた場所で、遺体の上から土を被せる土葬です。
 死者が出る度に、
隣接し並べて土葬します。
 時代が経ち、
横に広がり場所的に限界が来ると、上に重ねて土葬が繰り返されて小山に成ります。
 
これが、現在の天皇家の古墳の原型に成ったと感じます。
 天皇家は一名ごとに、大きな小山の古墳を作りましたが、本来は土葬が繰り返された結果で出来る形です。

(注:青字にしたのは管理人)
 教祖様によると、縄文時代の埋葬方法は「遺体の上から土を被せる土葬」で、「住居から離れた場所」に遺体を隣接して埋葬したらしい。
 そして、「横に広がり場所的に限界が来ると、上に重ねて土葬が繰り返されて小山に成り」、それが、「古墳の原型に成った」になったらしい。


 とりあえず、教祖様の話はおいといて、実際に縄文時代の埋葬方法がどのようなものだったのかを見てみよう。

 縄文時代の埋葬方法を大きく別けると、次の2つのタイプの埋葬方法があった。

 1.墓穴を掘るタイプ
@.屈葬と呼ばれる遺体を強く丸めた姿勢や座位で埋葬する、1メートル余りの円形の墓穴を掘った墓
A.体を伸ばした伸展葬と呼ばれる方法で長さ2メートル前後の長楕円や長方形の墓穴に埋葬した墓
B.@とAの中間の屈葬が緩んだ形の墓

 なお、地域や時期によって、墓穴の大きさ、遺体の埋葬姿勢は異なるが、おおむね、円形で強い屈葬から長楕円で伸展葬に変化する傾向が見られる。
 2.墓穴を掘らないタイプ
@.浅い谷や小川の際に、むしろに乗せられた屈葬や通常の埋葬姿勢をとった遺体が安置されたもの
A.数体の埋葬人骨がまとめられて土を掛けられ、結果マウンドをもつ墓地
B.貝塚中の浅い窪地に遺体が安置された墓
C.河原石を敷き詰めた間や直下に遺体が埋葬された墓
D.フラスコ状土坑などと呼ばれる貯蔵穴を墓に転用したもの

 その他、関東地方を中心とした地域では、竪穴住居を再利用した廃屋墓と呼ばれるものや、洞窟や岩陰を利用した集団墓などもあった。
 縄文時代に一般的に広く見られるものは、「1.墓穴を掘るタイプ」である。
 そして、墓穴を掘った後の施設の違いに着目して、現状、次のような分類がなされている。
A.墓穴の上に石が並べられるもの(配石墓)
B.掘りこまれた墓穴の壁に木枠を立て並べたもの(木組墓(木槨墓))
C.石を立て並べたもの(石組墓(石槨墓))
D.穴を掘って骨にした遺体を土器棺に再葬した墓(土器棺墓)


 以上、縄文時代の埋葬方法が、教祖様の霊視したものと全く違っていることが良く分かるであろう。

 当時、一般的に取られていた方法では、遺体のそれぞれについて墓穴を掘るのであるから、墓が隣接することはあっても遺体が直接隣接することはないし、当然、積み重ねられることもない。

 また、教祖様の話に近いのは2-Aであるが、それでも遺体は数体なので、小山を形成するまでには至らない。

 教祖様の、小山を形成するほどの遺体数が積み重ねられた合同墳墓の話は、いったい、どこから出てきたのだろうか?(当然、教祖様の霊視なのではあるが)


 さらに、教祖様は「住居から離れた場所で」と述べ、埋葬地が住居から離れた場所にあったとしている。

 しかし、縄文時代の前半期から中期にかけて、東北地方南部から関東・中部地方では、集落の中央広場に墓地が据えられて、祖霊を核にした死者と一体となった生活が一般的に営まれていた。

 また、縄文時代を代表する三内丸山遺跡(※青森県青森市郊外にある、縄文時代前期中頃から中期末までを中心におよそ1500年続いた大規模集落跡)では、集落の中央を通る道を軸にして、東と西の出入路に沿って墓が並び、集落の西側奥にはリーダーたちの墓が並んでいた。そして、中央部の日常生活域には竪穴住居群と共に乳幼児の墓地があった。

 遺体や墓に関する縄文人の観念は、現代人のそれとは異なり、もっと日常生活に密着した身近なものだったのである。そして、そこには、祖霊等の力を借り、共に生きていく考えがあったのではないかと考えられている。(※もちろん、住居から離れた場所に埋葬されたケースがないわけではない)

 (※参考:『日本の歴史01 縄文の生活誌 改訂版』 岡村道雄・講談社)




 以上、教祖様の、縄文時代の埋葬方法の話は、全くの見当違いのものである。

 教祖様は、遺体が積み重なって小山になり、それが古墳の原型となったとしているが、むしろ、これは、古墳ありきで、そこから連想しただけのものではないかと思われる。

 また、現代の、死体をケガレとし、また、不気味に感じる感覚から、安易に縄文時代も同様だと考え、住居から離れた場所に共同墓地があったと想像したのであろう。



2010.12.12 新規

    精神世界
   (※「AIRランキンク」゙さんの精神世界ランキング。クリックすると、当HPに一票入れたことになります)


事前にきちんと勉強してから、霊視するようにした方がいいゾ。