「荒深道斉が作ったのはカゴメ歌の一部だけだった」にツッコミ!(その2)・・・伊勢白山道様

 (その1)で見た通り、2008年時には、「荒深道斉が阪神大震災を予言してカゴメ歌を作った」と主張していた教祖様は、2013年には、「荒深道斉が既にあったカゴメ歌に、『鶴』『亀』『スベル』『後ろの正面』といったキーワードが追加しただけ」と言い出した。

 果たして、荒深道斉(1871-1949)がカゴメ歌にこれらのキーワードを追加した可能性はあるのだろうか?

 当記事では、その可能性について検証して行きたい。


 それでは、文献に残っているカゴメ歌の内容を確認することから始めよう。

 まず、Wikipedia「かごめかごめに掲載されている江戸時代の文献「戻り橋背御摂」の内容を見てみよう。
「戻り橋背御摂」(文化10年(1813))
「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつっはいた」(大南北全集)
 確かに、この時点では、「鶴」「亀」「スベル」「後ろの正面」というキーワードはない。

 次に、1915年(大正34年)に刊行された「俚謡集拾遺」 を見てみよう。
「俚謡集拾遺」(大正4年(1915)) ※Wikipedia「かごめかごめ」より
「籠目かごめ、籠の中の鳥は、いついつでやる、夜明けの晩に、ツルツル辷(つ)ウベッた。」(東京)
「籠目かごめ、籠の中のますは、何時何時出やる、十日の晩に、
鶴亀ひきこめひきこめ。」(長野県)
「かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、よあけの晩げつゝらつゥ」(新潟県)
 ここでは、長野県のカゴメ歌に「鶴」「亀」のキーワードのみが登場している。

 もう、この時点で、教祖様の主張は怪しい限りである。

 もし、教祖様の言う通り、「鶴」「亀」「スベル」「後ろの正面」の4つのキーワードが荒深道斉によって追加されたのなら、
4つが同時に、かつ、まとまって登場しなければおかしいからである。


 続いて、荒深道斉の経歴についても確認しておこう。

 以下は、『古神道の本』(学研/1994)に記載された荒深道斉の略歴である。
『古神道の本』 (学研/1994) P.59
荒深道斉(あらふか みちなり)1871-1949

 岐阜県山県郡中洞生まれ。神道家を志して21歳で上京し、神宮教校に入学するが、貧窮のため中途退学。25歳の時に東京瓦斯紡績会社に入り、
52歳で大病を患い退社
 
この頃より、霊異現象が相次ぎ、神武天皇の重臣、道臣命(みちのおみのみこと)の霊示が降ったとして、昭和3年、58歳で純正神道研究会を組織、心霊科学の先駆者として神道界内外に影響を与えた。後に「道ひらき会」を組織し、古跡探査に奔走。
 こちらを見ると、荒深道斉に霊示が降ったりして霊能者として活躍し始めるのは、52歳で大病を患って会社を退社した後のことである。

 そして、退職した正確な年は、『日本トンデモ人物伝』(と学会 原田実/文芸社/2009)によると
1922年(大正11年のことである。

 つまり、
荒深道斉が霊能力を得て活動を開始するのは、先述した、「鶴」「亀」のキーワードが記載されている「俚謡集拾遺」(大正4年(1915))の刊行より後なのである。

 ますますもって、教祖様の主張が成立するとは思えない。


 最後に、江戸時代のカゴメ歌の内容をもう一度、確認してみよう。
「戻り橋背御摂」(文化10年(1813))
「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつっはいた」(大南北全集)
 ここで注目したいのは、この中に「つるつるつっはいた」という文言があることである。

 そもそも、カゴメ歌のようなわらべ唄は、子供達の遊びの中で自然と変更されて行くものであり、もとは一つの地域の子供たちが始めた遊びであっても、それが他の地域に広まるにつれ、もしくは、時代を経るにつれ、歌やルールが変更されて行くものである。

 それを前提に、「つるつるつっはいた」を見てみると、ここには既に、「鶴」、「亀」、「滑った」という三つのキーワードが登場するヨスガが見て取れることが分かる。

 まず、「つる」から「鶴」が連想され、かつ、「鶴は万年、亀は千年」、「鶴亀算」などという言葉があるように、「鶴」から「亀」が連想されて、セットで追加されることになったのであろう。

 そして、「つっはいた」は、現代人には意味が不明である。よって、意味が分かるように、その前の「つるつる」から「滑った」が連想され、意味が分かるように改変されたのではないかと思われる。

 なお、上述の、大正時代の「俚謡集拾遺」に掲載されている東京のものには、辷(つ)ウベッたという文言があるが、これは、「すうべった」と音が近く、歌詞が「滑った」となる前の段階だとも考えられる。

 このように、「鶴」、「亀」、「滑った」という三つのキーワードについては、追加された理由がきちんと説明でき、
突然、脈絡もなく、湧いて出て来たものではないことが分かる。

 このような事実も、教祖様の主張を否定する根拠の一つとなりえよう。

 もし、これらのキーワードが、荒深道斉が「陰(鶴)と陽(亀)のユダヤ民族の統合」を予言して追加したものなら、
過去のカゴメ歌との関連など見い出せることなく、突然、登場しなければおかしいからである。
<参考1>
 「カゴメ歌の歌詞が変遷して、『鶴』等のキーワードが登場した」とするのは、管理人個人の説ではなく、そう考えるのが一般的である。

 例えば、『わらべ唄風土記 下』(浅野健二)には次のように記載されている。
『わらべ唄風土記 下』(浅野健二/塙新書/1970) P.225-226
最初の「かァごめ」は、もと身を屈(かが)めよ、即ちしゃがめという意味であったが、誰が改作したか、それを鳥の「かもめ」のように解して、「籠の中の鳥は」といい、籠だからいつ出るかと問いの形をとり、「夜明けの晩」などというあいまいな語を使って、しまいに「つるつるつッペエつた」から「鶴と鶴と(或ハ「鶴と亀と」)すゥべった」に転訛してしまったのである。

<参考2>
 上記説明では、「後ろの正面」の追加は説明できていないが、上述した江戸時代や大正時代の歌詞の最後を見ても分かる通り、本来、カゴメ歌は「当てモノ遊び」ではなかった。

 最後の部分を抽出すると以下の通りである。
「戻り橋背御摂」(文化10年(1813))
「つるつるつっはいた」(大南北全集)
「俚謡集拾遺」(大正4年(1915))
「ツルツル辷(つ)ウベッた。」(東京)
鶴亀ひきこめひきこめ。」(長野県)
「よあけの晩げつゝらつゥ」(新潟県)
 そして、『日本語源大辞典』には、「当てモノ遊び」バージョン以外の遊び方も掲載されている。(青字部分)
『日本語源大辞典』(前田富祺/小学館/2005) 「かごめかごめ」 P.311
◆目隠しをしてしゃがんだ一人の回りを、他の数人が「かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜あけの晩に、鶴と亀がつーべっと、うしろの正面だあれ」と歌いながら回り、歌い終わったとき、中の一人が背後の人の名をあて、あてられた者が次に中に入って目隠しをしてしゃがむ。また、二人向かい合って両手を取り、中に一人入れて「かごめかごめ」の歌をうたって、終わると片方の手を高くあげて、中の者を出し、他の者が代わりに入るようにするものもいう
 また、『日本国語大辞典 第二版 第三巻』には、
日本国語大辞典 第二版 第三巻日本国語大辞典 第二版 編集委員会/小学館/1972) 「かごめ-かごめ」
*東京風俗誌(1899-1902)(平出鯉二郎)下・11・児戯「手を繋ぎて立ち、その下に一人の児をしてかがみ居らしめて<略>と叫べば、かがみ居れる児、乃ち逃れ去る遊びあり、これを『かごめカゴメ』といふ
とある。

 本来の遊びは、これらに掲載されているように、歌い終わりと同時に、「二人の手の輪の中にいる人が、入れ替わる遊び」や「数人の輪の中にいる人が、逃れ去る遊び」等であったのであろう。

 それは、これらの方が、上述した「つるつるつっはいた」、「ツルツル(つ)ウベッた」などの歌詞とマッチするものだからである。

 そして、その遊び方が、「当てモノ遊び」へと変遷すると同時に、「後ろの正面だあれ」という文言が追加されることになったのであろう。


 以上、「荒深道斉が既にあったカゴメ歌に、『鶴』『亀』『スベル』『後ろの正面』
といったキーワードを追加した」という教祖様の主張は、どう考えても無理があろう。




2013.5.28 新規

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ウソを取り繕う為にさらにウソをついて、傷口が広がっちゃってるゾ。