偽モノの見分け方(その4)
※当記事は(その1)(その2)(その3)からの続き


 当記事では、偽モノと本モノを見分ける為の、ポイントを絞って検証方法を解説して行きたい。


7.偽モノを見分ける方法(ポイントを絞った検証方法)


(1).聖人・偉人・人格者とはどうあるべきかを考え、それと比べる

 伊勢白山道氏のように、少し疑問を付きつけられれば、
キレてケンカ腰で相手を攻撃するなど、精神的指導者として相応しくない態度であろう。
 また、はずした霊視結果をこっそり削除して無かったことにする
隠蔽体質も、立派な大人の態度でさえない(似たような大人はいくらでもいるが)。

 一方、大川隆法氏のように、書籍という公の場で
「便器カバーの裏側にびっしりと跳ね返りが付いている」「かなり口臭の激しい人だった」などと相手をこき下ろすのは、はっきり言って何の思慮もできない小学生レベルの行為であろう。

 
結局、彼ら自身が、自らの人としてのレベルを行動で示してしまっているのである。

 なお、念の為、記載しておけば、彼らはかなり分かり易い例である。自尊心や自己保存欲が強いので、少し疑問を呈されれば、過剰に反応してキレ出したりする。

 一方、もう少し賢い偽モノ教祖であれば、多少の疑問の提示など余裕で受け流すし、また、言い逃れようのない批判が提示されても、懸命に相手に理解してもらおうと努力している雰囲気を醸し出したり、相手に理解されない悲しみを感じている演技くらいはやってのけたりするので注意されたい。


(2).彼らが推奨している概念で検証する

 例えば、伊勢白山道氏は感謝想起なるものを推奨しているが、彼が「感謝」という概念に基づいて、どの程度、行動できているのかを検証してみるのもいいだろう。

 先ほども記載したが、少し疑問を付きつけられれば、キレてケンカ腰で相手を攻撃するなど、当然ながら「感謝」などとは程遠い行為である。

 ただ、人であるからには、一時的にカッとなってしまうこともあるかも知れない。しかし、彼は、他の信者から、そのようなケンカ腰の態度を批判されると、気づいて反省するどころか、「むしろ批判者には、信じてくれるなと言いたい」と開き直った。

 このような彼の行動から分かることは、彼の本心では、
「感謝」なんかよりも自分の「自尊心」の方がはるかに大切だと言うことである。

 また、もし、彼が本当に「感謝」の概念で行動しているのならば、彼のアフィリエイト等の収益の行方について疑問を呈された時には、
 収益は全額寄付していると伝えているのだが、一度や二度、言っただけでは、特に新人の信者の方には伝わらないんだな。

 有料先生をあれだけ否定していながら、一方で、アフィリエイトでせっせと稼いでいるのが目について、疑問に思われるのも仕方がない。

 収益を全額寄付していることを、もっと分かり易い場所に掲示しよう。気づかせてくれてありがとう。
ぐらいの思考と行動ができたことであろう。


 このように
、「もし、彼らが推奨している概念を、彼ら自身が本当に大切だと思って行動しているのなら、どう行動しただろうか」を推測してみて、それと実際の行動とを比べてみるのも有効である。


(3).誰の為に、何の目的での行動かを検証する

 再び、伊勢白山道氏のキレた例をあげれば、収益について疑問を呈されることは、彼には、彼の自尊心を侵害する行為と感じたのであり、だからこそ、キレでケンカ腰で相手を攻撃したのである。

 これは、当然ながら、疑問を呈した信者の為ではない。
自分の為の行為であり、また、目的は、自分の自尊心が侵害されていると感じたので、それを防ぐ為である(はっきり言って、そんな程度で自尊心を侵害されていると感じる時点で小人なのであるが)。


 また、伊勢白山道氏のブログでは、「自己で判断して決めてください」「自己責任の上で判断をしてください」などという言葉が頻繁に登場し、各ブログ記事の最後には必ず、これらの言葉が含まれた定型文が掲載されている。
 さらに最近では、自らのハンドルにまで「伊勢白山道“先祖供養は自己責任・自主判断ですることです”」と入れてまでアピールしている。

 果たして、これらの言葉はいったい誰の為であろうか。

 これらの言葉だけ見れば、
「信者を盲信状態にせずに、自分で判断する力を失わせない為」と解釈することも可能であろう(おそらく、信者たちはそう解釈しているのではないかと思われる)。

 しかし、(その2)で記載したような、「むしろ批判者には、信じてくれるなと言いたい」などと言う彼の発言は、そのような解釈と矛盾し、むしろ、
批判せずに盲信することを促すものである。

 また、彼の次のような行動は、彼が、自分に危害が及ぶこと、及び、責任を取らねばならない状況に陥ることを如何に嫌っているかを示すものである。
 信者の一人が不特定多数に出したであろう伊勢白山道氏への勧誘メールに対して、「伊勢白山道を読んだことも無い人間のしわざです」と自分も信者も無関係だと責任逃れの為の主張をし、メールを出した者を完全に切り捨てた上で、「社会的な制裁を受けることでしょう」と恫喝。
詳細
 以上のような彼の行動を総合的に勘案すれば、彼の「自己で判断して決めてください」「自己責任の上で判断をしてください」という言葉は、自分の為のものであり、そして、目的は、信者に何か問題が発生した時に、この文言を持ち出して言い逃れする為だと考えるのが妥当であろう。


 さらに、大川隆法氏も伊勢白山道氏も、有名人や過去の偉人などの前世を書籍等で発表しているが、これは誰の為の行為で、何を目的としているのだろうか。

 結論から言えば、
自己の能力の誇示、及び、それにより他からの注目と称賛を得ることが目的であり、自分の為の行為である

 彼らの主張する前世情報は、全て漠然としたもので、そんな情報を提供されたところで、自分の能力を証明できるものでもなければ、前世を立証できるものでもない。

 有名人等の前世情報など、所詮は、彼らの能力をアピールするものに過ぎず、また、そんな話を真に受けてしまう人たちの好奇心を満たすだけのシロモノなのである。


 釈迦は、次のような形而上学的、哲学的問題について質問されても、答えなかったという(これを「捨置記」、または「置答」と言う)。
○我および世界は常住であるか(すなわち時間的に局限されていないか)、あるいは常住ならざるものであるか(すなわち時間的に局限されているか)

○我および世界は(空間的に)有限であるか、あるいは(空間的に)無限であるか。

○身体と霊魂は一つであるか、あるいは別の物であるか。

○人格完成者は死後に生存するか、あるいは生存しないか。
 そして、釈迦が答えなかった理由は、このような質問は益のないことであり、正覚、すなわち真実の認識をもたらさないからである。(※参考:『原始仏教 その思想と生活』P.50-51(中村元/NHKブックス))

 このようなことを知ったところで、悟りとは無関係。単なる好奇心を満たすだけのものであり、一度、その好奇心を満たせば、今度は別の似た疑問が湧いてきて、無益どころか、その無益な疑問に捕らわれて時間を無駄に費やすことになり、逆に、悟りからは遠のいてしまうということだろう。

 相手の成長を真剣に考えればこその「捨置記」であると言えよう。

 釈迦の、弟子の成長を思う、首尾一貫した態度がここには現れており、上記で記載した偽モノ教祖達のように、自らの能力を誇示したがるようななど微塵も見受けられない。

 
これが、本モノと偽モノの違いなのである。


 以上、偽モノを見分ける方法を説明してきたが、再度、言っておけば、重要なのは
「全体の言動を見ること」である。

 上記ではポイントを絞った検証方法も記載したが、偽モノ教祖も一時的なら、言行が一致しているフリをもするし、人格者っぽくも振る舞う。たまたま、そのように振る舞った時だけを抽出して検証してしまえば、当然ながら検証にならないのである。


 なお、この方法は教祖だけではない、人や団体・組織等の判断にも使用できるものである。

 その理由は、
人間は個人であれ、集団であれ、結局は、本心に従って行動してしまうものだからである。

 対象となる人や集団が発する言葉が、果たして本心からのものなのか、それとも、単なる建前に過ぎず、本心は別のところにあるのか、また、隠された本心とは何なのか、それらを判別する為に利用していただければと思う。




 それでは次に、上記に説明した方法の精度を上げる為にすべきことを、(その5)にて説明したい。



2012.9.11新規

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