『古代天皇家と日本正史』にツッコミ!(その1) ・・・ 中丸薫さま

書 名  古代天皇家と日本正史
著 者  中丸薫
出版社  徳間書店
価 格  1,600円(税別)
 出版年月  2004年9月

●本書概要

 以下は、カバーのソデ部分に記載されているコピーの一部である。

  ○朝鮮半島の王族が、日本で天皇として即位していた!!
  ○半島と列島の支配者のルーツは共に騎馬民族スキタイだった!!
  ○万世一系はスキタイの概念!!
  ○スキタイはシュメールの末裔!!
  ○聖徳太子はゾロアスター教の人だった!!
  ○神道のルーツも騎馬民族文化だ!!

 まあ、これだけで、おおよその本書のレベルが分かると言うものであろう。

●ツッコミ

 本書を読み終えた私の感想は、「おそろしく、自惚れた人だなぁ」である。

 教祖様が主張する歴史は、単なる仮説に過ぎないのだが(それも、質の低い仮説)、それを、本書の題名にある通り、「日本
史」と言い切ってしまう。

 しかも、1ページ目には、以下の記載。
人は皆、神の前に等しく、正直である以外ありません。
日本人の人間復興と世界平和への万感の思いを込め、
ここに一切の真実を明らかにすることにしました

(注)文字に色を付けたのは管理人(以下同様)
 「一切の真実を明らかにした」のが本書らしい。

 当然、明らかなウソ、間違いも目立ち、とてもじゃないが、 「一切の真実を明らかにした」などと大見え切って言えるものではない。

 逆に、この程度の内容で、よくもまあ、そこまで言い切れたものだと感心する。


 具体的な指摘事項等は以下の通りである。


<P.16>
 斑鳩という地名には、想像以上にペルシャ的な意味があるのをご存知でろうか。
 
斑鳩は「(まだら)の鳥」を意味する。この伝説的な鳥は、ペルシャの女神の使いと考えられていた。鳥をトーテムとする考え方は、古代のペルシャやフランスに見られるが、蘇我氏の権力から離れたこの地を中心に、新しい国の建設に励んだ聖徳太子が、このようなペルシャ的な地名を選んだのものけっして偶然ではない。
 まず、斑鳩を「伝説的な鳥」としているが、誤り。

 斑鳩について、『日本語源大辞典』(前田富祺・小学館)の説明を見てみよう。
アトリ科の鳥。全長約23p。体は灰色で、頭、翼、尾は光沢のある黒色。くちばしは太く黄色。日本各地の低山帯にすむ。
 「伝説的な鳥」でも、なんでもない。

 次に、「斑鳩」という地名を、聖徳太子がペルシャ的な地名として選んだとしているがこれも誤り。
 同じく、『日本語源大辞典』の説明である。
奈良県生駒郡の地名斑鳩は、古代この地方に斑鳩が群居したことに由来して命名された。
 単に、斑鳩がたくさんいたから、そのように名付けられただけである。全く、「ペルシャ的な地名」ではない。

 最後に、教祖様は、斑鳩を「ペルシャの女神の使いと考えられていた」としている。
 この「ペルシャの女神」は、ゾロアスター教の女神であるアナーヒターのことである(P.217)。

 ササン朝ペルシャ(226-651)では、ゾロアスター教を国教としており、主神アフラ・マズダや太陽神ミスラと共にアナーヒターが絶大の人気を誇った。
 アナーヒターは、河を本体とする水神であるが、健康、子宝、安産、家畜の生殖・作物の豊穣の神ともされ、財産や土地の増大をも司るとされた。なお、一説には観音菩薩の源流になったともされる。

 また、ササン朝ペルシャ時代には、犬と鳥の合成体であるシムルグが皿や水差しに盛んに描かれたが、以下のように、アナーヒターと共に描かれる時もあったようである。

           

 おそらく、教祖様が「ペルシャの女神の使い」である「伝説的な鳥」としているのは、このシムルグのことではないかと思われる。

 なお、このシムルグはササン朝ペルシャ時代の特色であり、ゾロアスター教の経典である『アヴェスタ』には、アナーヒターを特別、鳥と結び付けているような記述はない。

 (参考:『ゾロアスター教』(岡田明憲・平河出版社)、Wikipedia「アナーヒター」)



<P.16>
 その斑鳩に立つ法隆寺。とりわけ聖徳太子にゆかりの深い夢殿は、実は、本来の寺院の一角ではなく、太子の宮殿のあった場所に建てられている。夢殿には、生前の聖徳太子をモデルにした、1メートル80センチ近い長身にして面長の救世観音が安置されている。
 〜(中略)〜
 
救世観音像は、その光背が火炎であり、手に持つ宝珠も火炎状である
 
八角形の神殿の中で聖火が燃えているという設定は、拝火教(ゾロアスター)の伝統に沿うものと言わざるを得ない。つまり、太子はゾロアスター教の神殿の中で、ゾロアスター教の神として祭られていることになる。
 救世観音の光背と宝珠が火炎状であることと、安置されている夢殿が八角形であることをもって、ゾロアスター教のものだと結論付けてしまう教祖様。

 確かに、ゾロアスター教は別名、拝火教と言われ、儀式に火を用いるのが特徴である。

 しかし、光背や宝珠が火炎状であるのは、当時、仏像によく用いられたモチーフであるに過ぎず、例えば、同じく法隆寺の金堂の薬師如来像や、大宝蔵殿の百済観音像の光背なども火炎状である。よって、救世観音だけの特別な特徴ではない。

 また、教祖様は、「八角形の神殿」をまるでゾロアスター教の特徴のように言っているが、実際にはそんな特徴などなく、また、ゾロアスター教において「八」という数字がことさら神聖視されていると言った事実もない。

 さらに、私は、ゾロアスター教関連の書籍を4、5冊読んだことがあるが、「ゾロアスター教の遺跡に八角形の建築物がある」というような内容が記載されているものなど一つも見たことがない。

 ただし、『学研ムー 2009年12月号』の「聖徳太子の真『未来記』大予言」という特集には、以下の記述がある。
そう言えば、八角堂の構造は、古代ペルシアの拝火殿の構造と似ている。(P.39)
 教祖様と似たようなことを言っているのだが、おそらく、ソースが同じなのであろう。(ちなみに、このソースを探し続けているだが、未だ、たどり着けていない。知っている人、情報求む。 kuraji777■hotmail.co.jp (※■は@に変更))




<P.21>
 卵は古代ペルシャのトーテムであった鶏に連なり、「イースター」の語源は古代メソポタミアの「光と春の女神」イナンナ(バビロニアではイシュタル、ペルシャではアナーヒター)にある
 「イースター」と「イナンナ」では、「イ」しか共通しておらず、とても、語源になったとは思えない。
 ちなみに、、Wikipedia「イースター」には以下の通り記述されている。

復活祭を表す英語「イースター(Easter)」およびドイツ語「オースタン(Ostern)」はゲルマン神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」の名前、あるいはゲルマン人の用いた春の月名「エオストレモナト(Eostremonat)」に由来しているといわれる。
 教祖様のデタラメな語源説は、いったい、どこから持って来たのやら。。。



<P.73>
 日本が騎馬民族によって征服されて成立したとする「騎馬民族征服王朝説」が提唱されて久しい。
 〜(中略)〜
結局、明確な反論がないまま、
この新説は、なし崩し的に通説になっている
 「騎馬民族征服王朝説」は、通説になどなっていない。以下はWikipediaの記述である。
Wikipedia「騎馬民族征服王朝説
この学説は戦後の日本古代史学界に波紋を広げ、学会でも激しい論争となったが、細かい点について多くの疑問があり、定説には至っておらず、一般の人気や知名度に比べ、支持する専門家は少数派にとどまっているとされ、今日ではほとんど否定されていると言う者もある
 教祖様は、いったい何を根拠に「通説になっている」などと言っているのだろう。



<P.75>
 長い間、「前方後円墳」は日本独特の形態であるとされていたのだがここ数年、正真正銘の「前方後円墳」が朝鮮半島の各地で続々と発見されているかなり古い、伽耶、高句麗のものもありこの事実は日本の学者も認めざるを得ない

 「『前方後円墳』が朝鮮半島の各地で」、発見されていて、「かなり古い、伽耶、高句麗のものもあ」るらしい。

 実際に、前方後円墳が発見されているのは朝鮮半島の南部のみ。高句麗のものはなく、また、発見されているものには、日本のものより古いとされるものはない。(※参考:Wikipedia「前方後円墳

 教祖様は、
「この事実は日本の学者も認めざるを得ない」などと、自信満々だが、そんな事実など無いのだから、学者も認めようがない。

 さらに、この記述は、次のような主張につながる。
<P.76>
 実は前方後円墳は4〜5世紀の伽耶式古墳だったのである。備中(吉備地方の一部)に巨大な前方後円墳が何基も存在するのは、強大な伽耶勢力の存在を物語るもので、対馬、北九州を始め、西日本、特に吉備地方は伽耶文化の強い影響下にあった。
 前方後円墳の起源は朝鮮半島の伽耶で、備中に前方後円墳があるのは、「伽耶勢力の存在を物語」っているらしい。(なお、教祖様は、伽耶が騎馬民族で、日本を征服したと考えているようだ)

 まあ、そもそも、前提となっている「朝鮮半島の前方後円墳の方が、日本のものより古い」というのが誤りなのだから、こんな主張など成立しえない。

 なお、参考までに、読売新聞に掲載された、韓国の学者による朝鮮半島の前方後円墳に関する学説を紹介しておく。
2011年1月12日読売新聞朝刊 「倭の軍 朝鮮側の要請か 『領土的進出』印象覆す研究」
 5世紀末になると、百済南部に突如、日本にしかなかった前方後円墳が10基以上現れる。これらの被葬者を百済王が雇った倭人の傭兵の長とみるのは、韓国の朴天秀(パクチョンス)・慶北大教授(考古学)。この時期の倭は大王の後継問題をめぐって混乱していた時期で、朴教授は「九州の勢力が百済に雇われた」と考える。また、2008年には半島の南西端に位置する前方後円墳、龍頭里(ヨンドウリ)古墳から、金銀で装飾された百済製の木棺や金銅製の馬具などが出土したが、「いずれも百済王が下賜したものと考えられ、傭兵説を裏付ける」と主張する。
 当然ながら、「前方後円墳は日本が起源」ということが前提の説である。



<P.91>
 高台に位置した三内丸山遺跡は、5000年前、数百人ほどの高い技術を持った人々が青森の海に臨んで定住した大集落だった。
 〜(中略)〜
 ところで、遺跡の広場の中心には、
巨木を積み上げた建物が建っている。その技術は、われわれの縄文時代に対する認識をくつがえすのに十分だが、それ以上に注目すべきは、その政治的な意味である。17メートルもの高い楼がなぜ必要だったのか。交易に行き来する船の目印とも考えられるが、単にそのような目印だけのためなら、多大な労力を費やして高い楼を建造する必要はない。明らかにこれは軍事的な見張り台であり、それを建てる必要があったということは、縄文時代がけっして平和な桃源郷ではなく、戦争が念頭にあったことを意味する。
 青森の三内丸山遺跡にある「巨木を積み上げた建物」は、教祖様によると、「明らかにこれは軍事的な見張り台」らしい。

 教祖様が言っている建物は、一般に、「大型掘立柱建物」、「六本柱建物」と言われるもので、1994年に直径約1メートルのクリの巨木を、4.2メートル間隔で6本建てた跡が発見され、現在は、高さ14.7メートルに復元されて、この遺跡のシンボルになっているものである。

 そして、この「大型掘立柱建物」については、神殿、物見やぐら、モニュメントなどの説が唱えられている。

 さて、教祖様は上述にように、この建物を「明らかにこれは軍事的な見張り台」と言っているが、これは
誤りである。

 何故なら、この遺跡には、外敵に備えた堀や城壁がない。堀も城壁も無いのに、「軍事的な見張り台」だけ建てても意味が無いだろう。むしろ、堀や城壁などが無いことから、外敵を意識せずに、平和裏に暮らしていたことが伺えるのである。

 おそらく、教祖様は、右の写真のような「大型掘立柱建物」が復元されたものを見て、安易に「明らかにこれは軍事的な見張り台」と考えたのだろう。

 ちなみに、この復元された姿は、復元時に、「ただ柱が立っていただけなのではないか」と言う意見や、逆に「装飾具などもある非常に凝った建物だったのではないか」と言う意見が出され、結局、中間をとって、現在のような、床があるのに屋根が無いという中途半端な姿になったものである。

 (参考:『日本の歴史01 縄文の生活誌』岡村道雄・講談社、特別史跡 三内丸山遺跡、Wikipedia「三内丸山遺跡」)

 教祖様の安易な発想と、その脆弱な根拠によって確信に至る安直さが、伝わってくる事例である。



<P.149>
 十七条憲法の実態は、道徳的あるいは宗教的含蓄の深い教書や「理想の国民像」などではけっしてなく、多くの研究者が指摘するように、国家体制維持に効率のよい行政官の指南書である
 聖徳太子の十七条憲法を、「道徳的あるいは宗教的含蓄の深い教書や「理想の国民像」などではけっしてなく」とか、国家体制維持に効率のよい行政官の指南書である」などと言って、否定する教祖様。

 しかし、巻末の「エピローグ」では、
<P.301>
 聖徳太子は、「十七条憲法」の精神と「八正道」の実践が、今の日本人にとって大切なことであることを、メッセージとして伝えてこられた。
 今の日本人に「『十七条憲法』の精神」が大切であると、聖徳太子が教祖様に伝えてきたらしい。
 「道徳的あるいは宗教的含蓄の深い教書や「理想の国民像」などではけっしてな」いのだろうに。

 何を言ってるのやら。。。 (いろんな意味で)



<P.171>
 『書紀』の「神代紀」を読んで、「日本列島は太古から天皇の強大な権力によって統治されていた」と勘違いしてはならない。聖徳太子の時代の列島には、まだ中央政府などは存在せず、東国諸国、吉備、筑紫などを始めとして、各地が独立国に等しく、大和地方では半島の三国を代表する勢力が割拠していた。
 「『日本列島は太古から天皇の強大な権力によって統治されていた』と勘違いしてはならない」と言い、また、
<P.175>
 『書紀』や『古事記』の編纂作業が始まった7世紀は、日本の国家創成期にあたり、民族の統一性を強調する必要があった。最初から「民族意識」が存在するなら、そのような書物を編纂する必要などないわけで、多民族の列島に統一された国家意識・民族意識・ナショナリズムを植え付けるために、統治者の正統性をうたうイデオロギーが強調されたのである。
 事実、
奈良時代までは、天皇はそれほど絶対的な存在ではなかった
 「奈良時代までは、天皇はそれほど絶対的な存在ではなかった」と言っている。

 しかし、教祖様の別の著書、『日本とユダヤ/魂の隠された絆』では、以下の記述がある。
『日本とユダヤ/魂の隠された絆』(徳間書店・2007.1) P.320
 竹内文書は超古代に、天皇(てんし様)が天の浮き船に乗って世界を巡幸し、世界を治めていた。そしてその世界は、万有和楽、いきとしいけるものが共にむつみ合う理想の世界だったと述べます。私が最近天上界からヒアリングした情報が、竹内文書とシンクロするので、今とても気になるのです。
 竹内文書の「超古代に、天皇(てんし様)が天の浮き船に乗って世界を巡幸し、世界を治めていた」などといった内容が、教祖様が「最近天上界からヒアリングした情報」「シンクロ」するらしい。

 奈良時代までは、天皇はそれほど絶対的な存在ではなかったと言ったり、超古代に天皇が世界を治めていたと言ったり、支離滅裂で統一性のない主張。

 他にも、教祖様は、以下のことも言っている。
<P.32>
 日本列島にわずかにその痕跡を残す万世一系、アインシュタインをして「最も古く、最も高貴な家柄」と称させた天皇家のルーツを追えば、はるかシュメールまで時代を遡り、遠くタリムの地に辿り着く
 「天皇家のルーツを追えば、はるかシュメールまで時代を遡り、遠くタリムの地に辿り着く」らしい。
 タリムの地とは、中央アジアの新疆ウイグル自治区あたり。一方、竹内文書の内容が仮に正しいとすれば、天皇は超古代からずっと日本にいて世界を治めていたことになる。

 竹内文書の内容と教祖様の本書での主張は、全く相容れないものなのであるが、一方で、
「私が最近天上界からヒアリングした情報が、竹内文書とシンクロする」などと言っている教祖様。

 教祖様は自分の主張していることを、本当に理解できているのだろうか。。。




 さて、(その2)では、教祖様の説の元ネタが判明したものがあるので、そのパクリっぷりを明らかにして行きたい。




2011.4.25 新規

よくもまあ、「正史」だとか、「真実」だとか言えたモンだナ。。。