『神との対話[普及版]@』にツッコミ!

書 名  神との対話 [普及版] @
著 者  ニール・ドナルド・ウォルシュ 吉田利子(訳)
出版社  サンマーク出版
価 格  800円(税別)
 出版年月  2001年1月

●本書概要

 本書は、教祖様の質問に、神が答えるという対話形式で書かれており、「神とは」、「生きるとは」等の根本命題について解答を与えている。


●ツッコミ

 本書は、いわゆる「自動書記」という形態で神からの回答が得られているようである。

 八百万の神の国の住人である日本人にしてみれば、教祖様に降りてきた「神」がどのレベルの「神」を指すのか気になるところではある。しかし、アメリカ人の著者にしてみれば「神」とは「GOD」しかおらず、それは、唯一神であり、創造主あり、また、全知全能の神なのであろう。
 実際、以下の通り、神様自ら全能の神、創造者を名乗り、「GOD」であることを示している。
 わたしが全能の神、天と地の王者として姿を現し、それを証拠だてるために山を動かしてみせたら、「悪魔にちがいない」と言う者がきっといるだろう。(P.34)

 わたしはシンプルな、―――そして畏怖すべき―――創造者だ。(P.207)
 さて、この、創造主様のありがたいお言葉であるが、全体的に支離滅裂で意味不明。
 これが、創造主様が提示したという内容というのなら、レベルの低さに呆れる。

 以下に、このように感じた具体的箇所・理由について記載したい。
 わたしはコミュニケーションの手段に思考も使う。思考と感情は同じではないが、同時に生まれることがある。思考を通じたコミュニケーションには、イメージや画像が使われる。
 だから、単なる言葉より思考のほうが、コミュニケーションの道具として効果的だ。
 感情と思考のほかにもうひとつ、経験という、偉大なコミュニケーション手段がある。
 感情と思考と経験のすべてが失敗したとき、最後に言葉が使われる。言葉はじつは、最も非効率的なコミュニケーション手段だ。最も曲解されやすいし、誤解されやすい。
 どうしてか?それは言葉の性質のためだ。言葉はただの音にすぎない。感情や思考や経験の代用だ。シンボル、サイン、しるしでしかない。真実ではない。ほんものではない。言葉は理解の助けにはなる。あなたがたはものごとを、経験によって知ることができる。
(P.20)
 ここでは、神からのコミュニケーションの手段として、「思考」、「感情」、「経験」、そして「言葉」が上げられている。
 そして、それらの定義が明示されておらず、一部のヒントが提示されているだけである。

 例えば、「思考」によるコミュニケーションの場合、「イメージや画像が使われる」らしい。私は、「思考」による場合は、「何らかのアイデア等のひらめきがもたらされること」かと思ったのだが、そうではなく、あくまで視覚的なイメージや画像によるものらしい。それは、もはや「思考」によるものではなく、単なる、「映像」によるコミュニケーションであろう。

 また、「思考」では「イメージや画像が使われる」、だから、「単なる言葉より思考のほうが、コミュニケーションの道具として効果的」なのだそうだ。なぜ、この2つの文章を「だから」でつなぐことができるのか、論理が飛躍し過ぎていて理解できない。

 さらに、「言葉はじつは、最も非効率的なコミュニケーション手段だ。最も曲解されやすいし、誤解されやすい」らしい。確かに、言葉は万能ではない。しかし、言葉が「最も曲解されやすいし、誤解されやすい」というのは賛同しかねる。例えば、「○○をしてはいけない」ということを伝えるのは、言葉を使用する方法が最も効率的で誤解をまねかない手段であろう。ケース・バイ・ケースに過ぎない。

 そもそも、言葉が最も非効率的で曲解されやすいコミュニケーション手段であると主張するならば、言葉で構成された本書のようなものを出版していること自体が自己矛盾も甚だしい。
 より、効率的で曲解されにくい、イメージや映像のみの書籍を出版すべきだろう。霊媒に降りて手を動かすことができるのだから、パソコンなどのツールを使えば可能であろう。
 だからこそ、わたしは何千年ものあいだ、世界のすみずみにまで、くり返して同じメッセージを送りつづけてきた。あなたがたがメッセージを受けとって、しっかりと握りしめ、これは自分のものだと言うまで、いつまででも送りつづける。
 わたしのメッセージは何百ものかたちで、何千もの機会に、何百万年にもわたって送られる。  本気で耳を傾ければ、必ず聞こえるはずだ。本気で聞けば、無視することはできない。
 そこで、実のあるコミュニケーションが始まる。過去、あなたがたはわたしに語りかけ、祈り、取り次ぎ、懇願するだけだった。だが、いまこそわたしから語りかけよう。
 いま、ここでしているように
(P.24)
 「何千年ものあいだ」メッセージを送り続けてきたと言っているが、人類の歴史からすればえらく短い。最近、メッセージを送り始めたということか?また、「何百万年にもわたって送られる」と、今後について語っているが、今度は極端に長い期間である。

 さらに、「過去、あなたがたはわたしに語りかけ、祈り、取り次ぎ、懇願するだけだった。だが、いまこそわたしから語りかけよう」なんて言っている。今まで、何千年ものあいだ、メッセージを送ってきて、本気で聞けば、そのメッセージを聞くことができたのではないのか??何故、「あなたがたは・・・懇願するだけだった」になるのだ??何故、「いまこそわたしから語りかけよう」なんて言えるのだ??

 理解不能で支離滅裂な内容である。
 人生は学校ですか?
 いや。
 何かを学ぶために、生きているのですか?
 ちがう。
(P.55)

 学校とは、知らないことを教わりたいと思うとき、行くところだ。すでに知っていて、その知識を体験したいというときに行くところではない。
 人生とは、概念として知っていることを体験的に知る機会だ。何も学ぶ必要はない。すでに知っていることを思い出し、それにもとづいて行動すればいい。
(P.56-57)

 魂―――あなたがたの魂―――は、知る必要のあることはすべて知っている。隠されていることは何もないし、知らされていないこともない。だが、知っているだけでは、充分ではない。魂は体験したがっている。
(P.57)

 自分が寛大であることを知っていても、寛大さを示す何かをしなければ、概念にすぎない。
 親切であることを知っていても、誰かに親切にしなければ、自意識があるだけだ。
 自己についての偉大な概念を偉大な体験に変えたい、それが魂の唯一の望みだ。
(P.57)
 世間でよく聞く、「人生は学校で、我々は何かを学ぶために生まれてきた」という話を完全否定。すべて知っているので学ぶ必要はなく、体験することが人生の目的であるらしい。

 一見、もっともらしいが、よく考えれば、単なる言葉遊びに過ぎないことが分かる。
 知っているから「何も学ぶ必要はない」らしいが、「体験的に知る」ことを「学ぶ」と表現することもできるし、そうすれば、結局、「人生は学校」という表現も問題ないことになる。さらに、既に知っていることを再確認することも、学習の一環と捉えることが可能であろう。

 要は、「学ぶ」と表現するか、しないかだけの違いであり、実際のところ、「人生は学校で、我々は何かを学ぶために生まれてきた」という話を完全否定できるだけの主張は、ここでは何もなされていない。

 このような、世間一般で正しいとされていることを否定することによって、自己の優位性をアピールしたり、注目を集めようとしたりするのは、世間でよく見られるケースである。
 そして、そのケースでは往々にして、上記のように、同じ内容を違う観点で説明しているだけで、単なる言葉遊びに過ぎないことも多い。
 世界の天災や災害―――竜巻やハリケーン、火山の噴火、洪水―――つまり、物理的な大変動そのものは、あなたがたが創造しているのではない。あなたがたが創造しているのは、こうした出来事が人びとの人生に及ぼす影響の度合いである。(P.86)
 天災や災害はあなたがたが創造しているのではない、と言っているのだが、次の行では、
 宇宙では、どう考えてもあなたがたが引き起こしたとか、創造したとか言えないことも起こっている。
 これらの出来事は、人間の意識の集積によって創造される。全世界が共同してこれらの経験を生じさせている。ひとりひとりは、そうした出来事のなかを動きまわり、自分にとってどんな意味を(意味があるとして)もっているのか、そうした出来事と向かいあったとき、自分は何者であるのかを決定する。
(P.86)
 「宇宙では、どう考えてもあなたがたが引き起こしたとか、創造したとか言えないことも起こっている」と、突然、宇宙規模の話になって、かつ、その「起こっている」ものが何なのか、具体的な説明は無い。そして、その、何か分からない出来事は、「人間の意識の集積によって創造される」らしい。

 さらに、「ひとりひとりは、そうした出来事のなかを動きまわり」という文章が続き、実は、宇宙規模の話ではなく、身近な話であることが判明するが、結局、この出来事がどのようなことを指しているのかは不明のままである。(※先の「宇宙」という言葉は、翻訳の問題で、おそらく、「世界」と訳す方が妥当であろう)

 「人間の意識の集積によって創造される」のだから、個人レベルの小さな出来事のことを言っているのではないだろう。と、なると、「世界の天災や災害」のことかとも思えるが、それは、先に否定されている。また、人的な「戦争や経済恐慌など」としても、これらは、「どう考えてもあなたがたが引き起こしたとか、創造したとか言えないこと」とは言えないだろう。
 「物理的な大変動」ではなく、人的なものでもない何か。。。疫病のことを指しているのだろうか??

 創造主様、何を言っているのか全く分かりません!
 神の世界では、なになにを「せよ」とか「してはならない」とは言わない。したいことをしなさい。より大きな自己の姿にかなっていることを考え、行いなさい。悪だと感じたいのなら、悪と感じなさい。 (P.89)
 「神の世界では、なになにを『せよ』とか『してはならない』とは言わない」と言ったその後に、「したいことをしなさい」と命令文。そもそも、この創造主様は本書で、さんざん、「『せよ』とか『してはならない』」と言っているのだが。
 地獄とは、間違った考え方から受ける苦しみだ。だが、「間違った考え方」という言葉も正しくない。なぜなら、間違った考え方や正しい考え方という区別はないからだ。地獄とは喜びの対極である。満たされないこと。自分が何者かを知っていながら、それを体験できないこと。本来の姿にくらべて卑小な在り方。それが地獄であり、あなたがたの魂にとって、それよりもつらいことはない。 (P.93)
 これも単なる言葉遊びである。「間違った考え方」はないが、「卑小な在り方」はあるらしい。要は、この「卑小な在り方」をどう表現するかだけの話。
 大きな意味では、「悪い」ことはすべて、あなたがたの選択の結果として起こっている。
 間違いは、それを選んだことではなくて、それを悪と呼ぶことである。それを悪と呼べば、自分を悪と呼ぶことになる。創造したのはあなたがただから。
(P.85)
 「間違いは、それを選んだことではなくて、それを悪と呼ぶことである」と言っているが、上で創造主様が言っているように、「間違った考え方や正しい考え方という区別はない」のであろう。
 「悪と呼ぶことは間違い」とか、「悪と呼ぶことは正しい」もないのではないか。

 自分自身が単なる言葉遊びをしていることに気づいていないから、こうした自己矛盾に陥る。
 またじゃまをしてすみませんが、それじゃ、たとえば病人がいて、山をも動かすような信念をもっていて、きっと良くなると信じ、口にもしていたのに……六週間後に亡くなったという場合はどうなんですか?これはその前向きのプラス思考、積極的な行動にあてはまるんですか? (P.173)
 これは、著者から創造主様への質問であるが、はっきり言って無意味な質問である。
 何故なら、想像上のありえない設定を作り出して質問しているからである。「山をも動かすような信念」を持っていたのなら、病気は治ったろうし、また、病気が治らなかったのなら、「山をも動かすような信念」は持っていなかったのだ。勝手な想像で矛盾する前提条件を作り出して質問しているのである。

 これは、例えるなら、「視力2.0のAさんが近視だとしたら、それは何故ですか?」と質問しているようなものだ。そんな状況などありえないのだから、質問自体が無意味である。

 こんな質問に対しては、前提とした条件が誤っていることを指摘するか、トンチ問答と割り切って対応するかのどちらかである。まともに回答するなどありえない。まともに回答しようがないのだから。

 しかし、創造主様は次のように、まともに回答しようとする。
 「山をも動かす」信念の持ち主が六週間後に死んだのなら、そのひとは六週間、山を動かしたのだ。彼にとっては、それで充分だったのだろう。彼はその最期の日の、最期の時間に、「オーケー、もう充分だ。つぎの冒険に進もう」と決めたのではないか。本人が言わなかったので、あなたはそれを知らないかもしれない。じつは、彼はずっと前に―――何日も、何週間も前に―――決意していたのだが、話さなかったのかもしれない。おそらく誰にも話さなかったのだろう。 (P.174)
 意味のない質問に対して、訳の分からない回答である。
 なんと、そのひとは「六週間、山を動かした」らしい。病気が良くなると信じていたら、どっかの山が動いたというのだ。いったいどこの山だろう?

 さらに、その人は、病気を治すことを諦めて、次の冒険に進むことに決めたらしい。
 ありえない回答である。何故なら、質問の前提条件を勝手に変更しているからである。質問からは、「死ぬまでずっと良くなると信じ続けていた」という内容しか読み取れない。それを、「どこかの時点で病気が良くなると信じるのを辞めた」と、自分が回答がしやすいように勝手に条件変更したのである。ルール違反も甚だしい。こんな回答方法が許されるなら、世の受験生はさぞかし楽に違いない。

 本来は、上でも述べたように、質問の前提条件が誤っていることを指摘して終了。この神様はそれが分からなかったから、まともに回答しようと試み、ルール違反を犯して誤魔化したのである。
 さすが全能の神、創造主様である。
  あなたが自分で考えたのでは、こんなに明快に語れなかったと考えれば、これが神との対話であるとわかるはずだ。(P.25)

 そこでわたしはいま、こうしてやさしく、誤解しようのない言葉で答えている。簡単で、混乱しようのない言葉で答えている。平凡な、惑わされようのない言葉で話していいる。(P.130)
 創造主様は、自分の言葉を「明快」であるとか、「誤解しようのない言葉」、「混乱しようのない言葉」であると思っているらしい。 いったい、どこから、その自信が出てくるのやら。。。




 以上、この創造主様が、創造主と言えるような知性を備えているかと言えば、答えは明らかであろう。



2010.11.18 新規

これが本物の創造主なら、この世はとっくの昔に破綻しているナ。