「目の中に梁が入っている人」の判別方法 〜怒り〜

 記事「目の中の梁 〜『欲』によって自らの目を曇らせる人達〜」では、イエスが言った「目の中の(はり)」とは「欲」のことであり、人は、その「欲」によって物事を歪めて捉え、正しく判断できなくなることを記載した。

 当記事では題名通り、そのような「目の中に(はり)が入っている人」の判別方法の一つについて記述して行きたい。



1.「目の中に梁が入っている人」の判別方法

 「目の中に(はり)が入っている人」は、目が己の「欲」で濁っているために正しい判断が出来ない。特に、己の「欲」に係る事柄についてはそうである。

 判断の材料となるのは情報だが、彼らは己の「欲」によって、その情報を歪めて認識する。例えば、自分に都合の良い情報は過大評価し、一方、都合の悪い情報は過小評価しようとする。

 そして、判断の前提となる情報を歪めて捉えるのだから、当然、そこから導き出される結論も歪んだものになる。

 よって、「目の中に(はり)が入っている人」か否かを判別できれば、その人の主張していることが、どの程度あてになるかも判別できることになる。


 「目の中に(はり)が入っている人」を判別する方法の一つ。結論から言えば、それは

   
「怒りをコントロール出来ているか否か」

である。

 もちろん、これで、完全に判別が可能となるわけではない。基本的に怒りをコントロールできている人であっても、ある対象に対しては、目に(はり)が入っているケースもある。

 ただし、怒りをコントロールせずに、自分が感じたままに怒りを発散しているような人は、まず間違いなく、目に(はり)が入っていて、己の「欲」に捕らわれて生きている人だと言うことが出来るだろう。

 「怒り」とは、己が感じた「不快」に端を発するものである。

 また、その、怒りの基となる「不快」とは己の「欲」を前提とするものであって、それをコントロールせずにそのまま発露させていること言うこと、それはつまり、「欲」に支配されていることに他ならないのである。

 以下で、このことについて、さらに詳述していきたい。



2.怒りとは

 「怒り」は、誰もが持つ感情の一つである。
 そして、その「怒り」は、
「自分が不快に思った、感じた時に発するもの」と言うことができる。例えば、

    ○自尊心が傷つけられれば、不快だから怒る。
    ○自分の利益が侵害されれば、不快だから怒る。

 この例は、自分の為の怒りであるが、他人の為に怒る場合でもやはり、不快に思うから怒るのである。

 「他人の為の怒り」は、例えば、「飲酒運転の車が歩行者に突っ込んで怪我人が出た」というニュースを聞いた時に、

     「あれだけ、飲酒運転はダメだと言われているのに、なんで!?」

と怒る場合である。

 こちらは、「義憤」という言葉で置き換えることも可能だろう。そして、こちらも、このような情報を聞いて不快に思ったから怒るのである。

 何故、他人に起きた出来事でも怒るのか。

 それは、その他人に自己を投影して、感情移入したからである。

 上の飲酒運転の例で言えば、もし、その事故で怪我をした歩行者が、心の底から憎んでいる人であれば、先のような怒りは生じず、むしろ、「ざまーみろ」と思うケースもあるだろう。
 それは、自己を投影せず、感情移入しなかったからであり、また、その出来事は、「不快」ではなく、むしろ、「快」であったからである。


 この怒りというものは、人間だけでなく、動物も持っている感情・行動である。

    ○自分に危険な動物が近づいて来ると、不快なので怒って威嚇し、排除しようとする。
    ○自分のエサが横取りされようとすると、不快なので怒って威嚇し、排除しようとする。

 人間の怒りも基本的に、このような動物の怒りと同様だと言える。

 つまりは、
自分に「不快」をもたらすものに対して、威嚇して排除しようとする行動が「怒り」なのである。

 そして、
自己の感情のままに怒りを発露している人は、本能的・動物的に行動している人であると言うことができるであろう。

 それは、「こうしたい」、「こうあって欲しい」という欲望のまま行動しているに他ならないのであり、また、目の中に(はり)(=欲)が入っているからこそ、物事を自らの欲に照らし合わせて判断・行動し、怒りを表わしているのである。
(注)
 基本的に「怒り」とは上記の通りのものであるが、そうでないケースもある。

 それは例えば、後述するコントロールされた「怒り」の場合であり、また、例えば、「怒り」がストレス発散、及び、優越感を感じるための手段として利用されている場合である。

 後者のケースでは、「怒り」は自分の「不快」を排除すると言うより、「快」を感じるために行っていると言え、それはやはり、己の「欲」に従って行動した結果であると言える。



3.感情のまま怒りを発している具体例

 次に、自分が感じた快・不快で情報を判断し、不快に感じたらストレートに怒りを表わして排除しようとする具体例を見て行きたい。

(1).ブリッ子の女性が気に入らない女性

 いわゆる「ブリッ子」と言われる女性を、異常に敵視している女性をよく見かける。

 「ブリッ子」の女性タレントが人気あると聞けば、「あんな女のどこがいいのよ!」、「ぜんぜん、ブサイクじゃない!」、「男に媚を売って!」などと怒りを露わにして攻撃を始める。
 そして、時には、その女性タレントのファンのブログにコメントして、そのファンの称賛を全否定するようなケースもある。

 その背景にどのような理由があるかはケース・バイ・ケースであろう。もしかしたら、自分に無いものを持っている女性への羨ましさが憎しみに変わっているのかも知れないし、また、かつて、「ブリッ子」の女性に好きな男性を取られた経験があるのかも知れない。

 理由が何にせよ、このような女性は、「ブリッ子」の女性に人気があることが不快でしょうがないのであり、その不快を排除しようとして怒りでもって威嚇しているのである。


(2).支持政党に関する否定的記事が許せない人

 2009年8月の衆議院選挙で民主党が大勝し政権交代を果たしたが、その後、しばらくの間、新聞の民主党に関する否定的記事に対して、不快感を表わして攻撃している人をインターネットでよく見かけた。

 もちろん、そのような人は該当の選挙で民主党を応援した人の一人。そして、ブログ等で新聞を攻撃している人は、民主党に関する否定的記事が不快でしょうがないのである。

 何故、不快なのかと言えば、民主党を支持したという自分の判断が、否定されているような気がするからである。

 メディアには政権を監視する役割もある為、野党時代よりも与党になった時の方が否定的記事が増えて当然である。しかし、中には「メディアは偏向している!」と激しい怒りを表わして糾弾しているような人もいた。

 このような人たちも、やはり、快・不快で物事を捉えている人たちであり、自分に不快をもたらす情報を怒りでもって威嚇し、排除しようとしているのである。


(3).自分の主張に否定的意見が提示されると、激しい怒りを表わして反論しようとする人

 議論の場に置いて、自分の意見に否定的意見や疑問が述べられると、激しい怒りと共に反論して、それらを封じ込めようとする人がいる。

 このような人も、自分の意見が否定されたりするのが不快でしょうがないのであり、その不快を排除しようとして、激しい怒りでもって相手を威嚇しているのである。

 議論とは、互いに意見を出し合って、より良い結論を導く為の場である。そして、その、客観性が必要とされる場において、「快か不快か」という主観で物事を考え行動する人が一人でもいると、議論は成立しなくなってしまう。

 他から、自分の意見を否定する主張がなされた場合、もし、それが的を得たものであるなら、自分の意見を取り下げなければならない。一方、的外れのものであるなら、そうである理由を示して終わりである。怒る必要など、どこにもないのである。

 また、相手がそもそも議論に値しないようなこと(例えば、単なる、誹謗・中傷)を言ってくるような人間である場合、そんな相手に怒ると言うことは、その相手と同じ土俵に立つことを意味する。そのような低いレベルでやり合うことには、やはり、あまり意味がないと言えよう。



 以上、当記事で挙げるのはこの3例だけだが、同じように、快・不快で物事を判断し、不快と判断したら、怒りでもって排除しようとする例などいくらでも挙げることができるであろう。

 また、歴史的事例を挙げれば、17世紀にガリレオ・ガリレイが地動説を唱えた際に、社会がこぞって怒りを表わして全否定した例がある。
 これも、物事を快・不快で判断し客観的に判断できない人達が、自分たちの信仰に反する事実が不快で仕方なかったが為に行ったことである。

 現代の人々は、地動説が否定された話を聞いて愚かだと笑うが、上述の例を見てみれば、実は、世の中の人々は、それほど変わっていないということが分かる。

 ただ、割合的に、客観的に物事を考えることの出来る人が少し増えた程度で、同じようなことをしている人はまだまだ沢山いるのである。



4.コントロールされた怒り

 これまでは、「コントロールされていない怒り」について見て来たが、では、「コントロールされた怒り」とはどのようなものであるだろうか。次に、それを見て行きたい。


 自分が不快に感じたら、そのまま怒りを表わしているのでは、当然、怒りをコントロールしているとは言えないだろう。前節で記載した例がまさにそうである。

 また、怒ってばかりいる人が、己の怒りを全くコントロールできていないのは説明するまでもないだろう。それは、自分の快・不快を他人に押し付けてばかりいる、ただの独善である。

 一方、全く怒らないことも、怒りをコントロールできた状態であるとは言えない。

 何を見ても、されても怒らず、また、何を言われても怒って否定せずに肯定している。それはただの優柔不断、軟弱な状態で、自分の意思がない状態である。

 この状態は、感情のままに怒りを表わしているのと正反対のもので、己の感情・意思を全く出せない状態である。

 当然ながら、己の思いを飲み込んでばかりいずに、ちゃんと相手に伝えるべき時は伝えるべきであろう。両極端と言うのはどちらも問題のあるものである。

 よって、
怒るべき時に怒り、怒るべきでない時に怒らないことがコントロールできた状態だと言えよう。

 では、どのような時に怒り、また、どのような時に怒るべきでないのか。

 例えば、相手が自分のしたことを十分反省しているのに、怒るというのは通常、意味がない。また、既に他の人によって怒られているのに、自分が同じ点について再び怒るというのも芸がない。

 一方、自分が何をしたのか全く理解せずに反省していないのなら、怒って、自分のしたことを認識させる必要がある場合もあるだろう。

 このような視点・考え方で怒るのが「コントロールされた怒り」であり、それは、

     
「怒りを向ける対象の為に怒ること」

であると言えよう。

 「コントロールされていない怒り」が自分の「不快」に基づくもの、つまり、自分の為の怒りであるのに対して、「コントロールされた怒り」相手の為の怒りなのである。


 よって、
「目の中に(はり)が入っている人」は自分の為に怒り、そうでない人は、他人の為に怒ると言える。

 一度、そのような視点で他人を見てみるのも面白いだろう。

 学校の先生、会社の上司、TVのコメンテーター等など。そのような人たちが怒りを表わした時、その怒りが自分の為か相手の為かを観察してみるのである。

 自分が腹が立ったから怒っているのなら、それは「自分の為の怒り」。
 一方、自分が腹が立つ、立たないに関係なく、状況を見て怒り、かつ、怒ることによって何かを改善させようとしていたりするのなら、それは「相手の為の怒り」である。

 そういう視点で見た場合、「多くの人は『自分の為の怒り』で、『目の中に(はり)が入っている人』である」と言う判定になることだろう。
 先述した通り、世の中には、目の中に(はり)が入っていて、己の「欲」に捕らわれて物事を判断している人が多くいるからである。


 ちなみに、「オレだって怒りたくなんか、ないんだよ」なんて言いながら怒るような人物は、まず間違いなく、自分の為に怒っている。
 本当は自分の為に怒っているからこそ、そう言うことによって、相手と自分を騙そうとしているのである。「自分はストレス解消の為に怒っているんじゃない、お前の為に怒ってやっているんだよ」と。

 このような言動も、目の中に(はり)が入っているがゆえである。



5.「怒り」でもって教祖・教団を判断する

 これまで述べてきたような「怒り」でもって人を判断する方法は、宗教団体の教祖等にも有効である。

 もし、自分の霊能力や教えに疑問等を呈されれば、怒りを表わして排除しようとするような教祖であるならば、その教祖は、目の中に(はり)(=欲)が入っていて、物事を客観的に捉えることができない人物だと考えていい。

 そのような教祖が表わす怒りは、完全に自分の為の怒りである。自分を守る為に怒りで威嚇し、疑問等を排除しようとしているのである。

 そして、そんな教祖が主張する教えは一見、もっともらしくても、所詮は、「欲」で曇った目で物事を判断して導き出したものに過ぎない。付いて行っても、幸福や真実とは真逆の方向へと連れて行かれるだけである。

 精神的指導者である教祖たるもの、穏やかで揺るがない心を持っていて欲しいものである。直ぐに心が揺らいで怒りを発するようでは、精神的指導者としてお話にならないと言えよう。


 また、宗教団体の良し悪しを判断するには、教祖だけでなく、信者を観察するのもいいだろう。

 教祖や教祖の教えが否定されると、激しい怒りでもって排除しようとする信者が多いような宗教団体は、やはり、インチキ教団だと考えて間違いない。
 教祖が「欲」に捕らわれているから、その教祖に導かれている信者たちも同じように「欲」に捕らわれているのである。


 なお、以上のことは、宗教団体に限らず、特定の主義や思想、主張を持っている団体・組織でも基本的に当てはまる。



6.まとめ

 以上、「怒り」と言うものの本質、及び、その「怒り」で人を判断する方法等を述べてきた。


 この「怒り」による判断方法は、自分自身にも有効である。

 自分が怒りを表わす時、それは、自分の為に怒っているのか、それとも、相手の為に怒っているのか、よく観察してみることである。

 もし、ちょっとでも不快を感じると反射的に怒ってしまうのであれば、それは、自分が「欲」に捕らわれて生きているからに他ならない。

    「自分は客観的に物事を考えることのできる人間だ」

そのように思っている人も数多くいると思う。

 しかし、「怒り」という観点で自分を検証してみれば、実は、「客観的に物事を考えられていない」、もしくは、「客観的に物事を考え切れていない」ということに気付く人も少なくないのではないかと思う。

 
客観的に判断すべき事柄を、「快・不快」や「欲」を基準に判断してはいけない。

 もしそうでなければ、誤っていると他から指摘されているのに、「自分の誤りを認めなければならない」という「不快」から逃れる為に、そのような指摘を怒りでもって排除し、決して認めないと言う行動を取ってしまうことだろう。

 そうして、誤った考えを保持したまま、無意味な、もしくは、社会にとって有害な人生を送ることにもなりかねない。


 また、このような「欲」に捕らわれた人間が多いと、社会は誤った方向へと進んで行くことになる。

 そのような社会は、「自分にとって『快』なものは正しく、一方、『不快』なものは誤り』」という判断をするような人が多い社会であり、当然、適切な決定ができず、また、真偽の判断も「快か不快か」で判断されるようになるからである。


 快・不快を感じるのは、人間であるのだから仕方がない。

 しかし、そのような快・不快とは切り離して、客観的に物事を判断できるようにならなければならない。

 「快・不快」や「欲」で物事を判断して行動していると、それは一見、自分の得になるように行動しているように見える。
 しかし、結局は、正しい判断ができないが為に誤った方向へと歩み続け、大損の人生を送ることになるのである。



2011.6.30新規

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