主観と客観(その1)

 当記事では、物事を考える上で大切な主観客観について述べて行きたい。

 世の人の多くは残念ながら、これらの言葉を知ってはいても、自分が考える際に明確に区別できているわけではない。
 主観で物事を考えて結論を出していながら、
客観的な結論だ!」と思い込んでいるケースが多々見られるのである。

 当然、そのようにして出した結論は、普遍性がある、つまり、誰にでも受け入れられるような客観的なものではない。

 しかし、本人は
客観的な結論だ!」と思い込んでいるので、受け入れられないことに納得できずに、他人と不要なあつれきを生み出したり、「アイツは馬鹿だから分からないのだ」などと勝手に他人を貶め、自己を増長させたりすることになる。

 
客観的に考えられないことは、まともに考えることが出来ないことと同義である。

 そして、それは、目に大きなゴミが入って全く前が見えていないにも係らず、
「自分はよく見えている!」と勘違いして、人生という険しい道を歩み続けることを意味するのである。
○自分はこの結論が正しいと思いたいから、こちらの結論が正しい。

○この結論が正しいとしたら、自分は誤りを認めなくてはならなくなる。そんなことはイヤなので、その結論は正しくない。
 例えば、このような考えが、主観で物事を考える人の根底にある考えであるが、このような考え方をしていて、まともな人生を歩めるはずがないことは明白であろう。

 以降では、より具体的に、
「客観的に考えるとはどのようなことか」をその対義語の主観と対比しながら見て行きたい。


1.主観と客観・・・言葉の意味


 まずは、主観客観、それぞれの言葉の意味を押さえておこう。

 『広辞苑』(第五版)では、「主観」について次のように説明されている。
「主観」
@(哲)(subjectの西周による訳語)客観に対する語。語源的には流動する作用・性質・状態を担う自己同一的な実体、基体(subjectum)を意味する。近世以後は意味を逆転し、対象の認識を構成する自我となった。特にカントでは、主観は生得の、一定の形式・法則に従って、客観的対象を構成する先験的主観とされた。カント以後は、単に認識主観にとどまらず、実践的能動性と自由の基体として主体とも呼ばれる。

A自分ひとりの考えや感じ方。
 当記事では哲学的意味での主観を扱いたいわけではないので@の意味は関係ない。

 よって、「A自分ひとりの考えや感じ方」の方になるのだが、あまり、的を得た説明とも思えない。
「では、二人以上同じ考え、感じ方を共有していれば、主観ではなくなるのか」と考えると、そうではないからだ。

 とりあえず、このままにしておいて、先に進もう。続いて、「客観」の意味である。
「客観」
(哲)@主観のに認識および行動の対象となるもの。A主観の作用とは独立に存在すると考えられたもの。
 何故か、哲学的な意味しか記載されていない。これでは、「主観」の方のAに対応する意味が不明なので、代わりに「客観的」を見てみると次の通りである。
「客観的」
特定の個人的主観の考えや評価から独立して普遍性をもっていること。
 こちらが当記事で扱う客観の意味である。

 おおざっぱではあるが、辞書的な意味で言えば主観客観の違いとは、
「個人に属するのか、普遍性を持っているか」と言えるだろう。

 そして、これをもって「主観」の意味を補足すれば、次の通りとなろう。
普遍性を持っていない、自分ひとりの考えや感じ方
 ただ、これでも、「自分ひとりの考えや感じ方」とは具体的には何なのか等、あまり明確ではないので、もう少し掘り下げてみたい。




(その2)に続く




2016.11.15新規

    精神世界
   (※「AIRランキンク」゙さんの精神世界ランキング。クリックすると、当HPに一票入れたことになります)







教祖様にツッコミを入れるページ