間違いや過ちを犯したら反省をする―――誰でも知っていることである。
しかし、知っていることと、それが実際に出来るかは全くの別問題である。
当サイトでツッコミを入れている自称霊能者たちがそのよい例である。もし、彼らに反省が出来るのであれば、とうの昔に霊能者の看板を降ろしていたことであろう。
彼らがデタラメ霊視や予言をし、外してもなお、霊能者ヅラをしていられるのは反省が出来ないからなのである。
反省ができないこと、それは、自分自身と向き合えないことと同義である。
彼らは、「自分に霊能力という特別な力がある」という幻想にすがり付いて執着し、「霊能力などない」という現実からは目を背けている。そして、自分自身を欺いているだけなく、他人をも欺いている存在である。
自己欺瞞であり、自分に対しても、他人に対しても不誠実であると言えよう。
また、彼らは、「反省できない」というより、むしろ、「反省したくない」と表現した方が適切だろう。
反省すること、すなわち、自分自身のありのままの姿と向き合うことによって、それまでに築き上げて来た幻想を失うことが怖くてしょうがないのである。
当記事では、このような人たちが、どのようにして反省することから逃げて、自分自身と向き合おうとしないかを考察して行きたい。
1.反省せずに済む方法
先にも述べた通り、反省が大事なことは誰でも知っているものである。
反省できなければ同じ過ちを繰り返すことになり、また、反省せずに様々な過ちを蓄積しながら人生を送って行くのは愚かでしかない。
しかし、他人が反省せずに同じ過ちを繰り返すのを見て批判する人は多いが、一方で、自分が同じ過ちを繰り返し続けても平気な人も多い。
彼らは、自分が反省しないクセに、平気で他人に反省を求めることができる厚顔無知な人々であるのだろうか。
いや、そうではない。
そのような人たちは無意識に、「反省せずに済む方法」、言いかえれば、「反省しないことを正当化する方法」を身に付けているのである。
そして、その方法があるからこそ、自分が反省すべき状況に陥っても「反省すべき状況じゃない」と考えて、反省しないことを正当化し、一方で、他人に反省を求めては、「自分は『反省すべき時には反省すべきだ』とということが分かっているちゃんとした人間だ」と考えて自己満足するのである。
過ちや間違いを犯した時、反省すべきである。
ならば、どうすれば反省せずに済むのか。
簡単なことである。反省の前提である「過ちや間違いを犯したという事実」、そこから目を背ければ良いのである。
そして、目を背ける手段は大きく分けて次の二つの方法があり、反省できない人は無意識にこれらの方法を実践している。
@.自分が犯した過ちや間違いを、見ない(文字通り、目を背ける)
A.自分が犯した過ちや間違いを、過ちや間違いだと認めない(見るには見るが、否定してしまう) |
@は、自分が過ちや間違いを犯したという事実を記憶の奥底に沈めて、見ずに忘れてしまう方法である。見なければ、それは無いことと同じ。そして、無いのだから反省する必要もない。
反省できない人は、基本的には、この方法を実践しているのだが、あまりに大きな過ちであったり、他から指摘されたりして、見て見ぬふりができない場合もある。そのケースで反省しない方法がAの「自分が犯した過ちや間違いを、過ちや間違いだと認めない」である。
他人から過ちだと指摘されても、そのことを自分が認めさえしなければ、反省をする為の前提が否定されたことになる。よって、他人がどう言おうと、自分の中では過ちを犯していないのだから、反省する必要などないのである。
以上、「反省できない人」、つまりは、「反省したくない人」は、このような方法を使い、自分が反省しないことを正当化し、反省しようとしない。
そして、このような方法は、「過ちを認めたくない」、「反省したくない」、そのような欲に基づいて考え、自然と編み出された方法であり、多くの大人たちが使っているものである。
先にも述べた通り、反省ができないこと、それは、自分自身と向き合えないことと同義である。つまりは、反省せずに自分自身と向き合おうとしない大人たちが、自分自身を過大評価した幻想を抱いて生きている社会が現在の社会であると言っていいだろう。
さらには、そのような大人たちを見て、子供たちがその方法を取り入れ、同じように反省できない大人になって行く。そんな悪循環が今ある社会の歪みの大きな原因の一つであると私は考える。
さて、当HPでは、インチキ霊能者等を扱っている性質上、反省できない人の事例が豊富である。(その2)以降では、「反省できない人」が具体的にどのようにして反省しないことを正当化しているのかを見て行きたい。
2014.06.17新規
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