感謝と怨嗟 〜感謝のもつ危険性〜 (その1)

 新興宗教の中には、「感謝」を強く推奨し、その「感謝」を無条件に良いものとしているところが少なくない。
 しかし、実は、「感謝」というものは危険性をはらんでいるものであり、問題が無いわけでない。

 当記事では、「感謝」のもつ危険性について、その対義語である「怨嗟」と比較しながら、説明していきたい。



1.「感謝」と「怨嗟」

 「感謝」と「怨嗟」は互いに対義語で、「感謝」は「ありがたいと思う気持ち」、「怨嗟」は「恨み嘆くこと」という意味である。

 一般に「感謝」はプラス・イメージ、「怨嗟」はマイナス・イメージのものとして捉えられ、「感謝は多ければ多いほど良い」と考えられているのではないかと思われる。

 確かに、「感謝の心と怨嗟の心のどっちを持つ方が良いか?」と聞かれた場合、もちろんその答えは「感謝の心」であろう。
 しかし、釈迦が中道(*)という考えを提示したように、どちらかに偏った状態というものは望ましいものではない。「感謝」でも、極端に偏るとそれはそれで問題があるものなのである。
(*)中道・・・「適正で中正な行為・歩み・道」という意味で、両極端な快楽主義や苦行主義のどちらにも傾かない、バランスの取れた生き方や考え方。
 そのことを説明する前に、「感謝」や「怨嗟」というものを、もう少し詳しく理解しておこう。

 まずは、「感謝」からである。
 「感謝」がなされる場合、一般に次のような過程を経てなされる。
@.対象(モノ・行為)の中に、自分にとって良い点を見つける
A.感謝の意を告げる、もしくは、心の中で思う
 例えば、落としたモノを拾ってもらった場合、「拾ってもらえて、自分が拾う手間が省けた」などと考え(※実際には、ほとんど反射的であろうが)、相手に「ありがとう」と言う。

 そして、感謝を表明する、感じるということは、
「その対象(モノ・行為)を自分の中で良いものとして受け入れた」と言うことを意味している。

 次に、「怨嗟」の場合は、「感謝」と同様に、以下のような経過を経てなされる。
@.対象(モノ・行為)の中に、自分にとって悪い点を見つける
A.怨嗟の意を告げる、もしくは、心の中で思う
 例えば、他人から理由もなく殴られた場合、「何で、殴られなければいけないんだ」と考え、「いきなり殴りつけるなんて、酷いじゃないか!」などと言う。

 そして、怨嗟の意を表明する、感じるということは、「その対象(モノ・行為)を自分の中で悪いものとして受け入れた」と言うことを意味している。


 よって、「感謝」と「怨嗟」の違いは、その対象を自分の中で、良いものとして受け入れるか、悪いものとして受け入れるかの違いであると言えるだろう。
 そして、「感謝」するにしても、「怨嗟」するにしても、まず、その対象について、良い点、もしくは、悪い点を見つけなければならないと言うことである。



2.「感謝」と「怨嗟」の極端な状態

 次に、「感謝」と「怨嗟」の極端な状態というものを見てみよう。


 まずは、「怨嗟」が極端な状態(※以降、「怨嗟の極致」と表現する)である。

 「怨嗟の極致」、それは、何にでも怨嗟する「不満しかない状態」になる。無理やり悪い所を探し出して怨嗟し、「自分は不幸だ」と思い続けている状態である。

 例えば、他人が心からの親切心で何かをしてくれても、

 
「きっと、下心があってのことだ、何か裏があるに違いない。こんなことをされても絶対に感謝なんかしないからな」

と考える。他人の行為によって自分に利益しか生じていない場合でも、恨み、怨嗟するのである。


 次に、「感謝」が極端な状態(※以降、「感謝の極致」と表現する)

 これは、「怨嗟」のケースと真逆で、何にでも感謝する「不満のない状態」になる。無理やりにでも良い所を探し出して感謝し、「自分は幸せだ」と思い続けている状態である。

 例えば、家族で歩道を歩いているところに車が突っ込んできて、3人の子供の内の1人が亡くなったとする。
 普通なら「怨嗟」して当然の状況だが、

 
「ああ、亡くなったのが1人だけで良かった。子供が全員亡くなることを思えば、私は幸せだ。私は運が良かった。神よ、感謝します」

と考える。他から見れば、明らかに不幸な出来事でも、何か良い点を見つけ、その他は無視して感謝するのである。


 どちらも、おかしな状況であることが分かるであろう。



3.「感謝」と「怨嗟」と極致の共通点

 正反対の状態である「感謝」と「怨嗟」の極致であるが、共通点もある。

 それは、どちらも、「自分の進歩・成長が無くなる」ということである。

 個別に説明しよう。

 「感謝の極致」の場合、それは、完全な現状肯定で不満がない。よって、何が起こっても不満がなく、全てを受け入れてしまうが為に、何かを改善しようという発想は生じない。そして、そこには、当然、自分の進歩・成長はない。

 もし、自分のミスで、自らの身に何か不幸が起こっても、「こんな程度の不幸で済んで良かった」とか、「これは、神様が自分の気を引き締める為に、引き起こして下さったんだ。ありがとうございます!」などと考えて、それで終わってしまうのである。
 よって、「何故、自分の身に、そのような不幸が起こったのか」という原因を客観的に分析することはしない。そして、何の対応策・改善策も取ることもなく、同じ失敗を繰り返し続けることになるのである。

 一方、「怨嗟の極致」の場合は、完全な現状否定で不満しかない。よって、何が起こっても不満で、全てを受け入れずに否定している状態である。

 そして、その否定の原因を他者へと向けるが為に、「アイツはオレより無能なのに収入が多い」とか、「アイツはオレの後輩なのに、オレより先に出世した」などと言うように、他人を恨み、羨んでいるばかりで、自分自身を改善しようとはしない。
 その反対に、他人を追い落とすことばかりを考え、そして、他人を低めることによって、相対的に自分が上になろうとするのである。

 やはり、ここにも、自分の進歩・成長は無いと言えるであろう。
<まとめ>
「感謝の極致」・・・完全な現状肯定で不満がない状態。全てを受け入れる状態。
「怨嗟の極致」・・・完全な現状
否定で不満しかない状態。全てを否定する状態。

 この二つの共通点は、
「自分の進歩・成長がない」と言うこと。



 ※「感謝と怨嗟 〜感謝のもつ危険性〜 (その2)」へと続く。


2011.2.17新規

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