※当記事は「感謝と怨嗟 〜感謝のもつ危険性〜 (その1)」からの続き。
4.「感謝」と「怨嗟」を利用するモノ
このような、問題のある「感謝」と「怨嗟」の極端な状態であるが、これらを利用するモノがある。
その代表は、新興宗教(※より正確に言えば「妖しい新興宗教」)、及び、共産主義である。
新興宗教も共産主義も、どちらも、低所得者層を主なターゲットにする。それは、その層の人たちがより多くの不満を持っているからである。
そして、その不満を増大させ、「怨嗟の極致」とすることによって利用するのが、共産主義である。
「あなたたち(プロレタリア(*1))が持っていないのは、あいつら(ブルジョア(*2))が持っているせいだ。あいつら(ブルジョア)は、悪いことをして持っているのだから、力で奪っていいんだ」
(*1)プロレタリア・・・生産手段をもたず、自分の労働力を資本家に売って生活する賃金労働者。また、その階級。無産者。
(*2)ブルジョア・・・資本家や資本家階級に属する人。 |
そう言って、不満を煽り、焚きつけ、その「怨嗟」のパワーを現政権を打倒する方向に誘導して、共産主義者が政権を握るために利用するのである。
一方、不満を「感謝」に反転させて利用するのが、新興宗教である。
新興宗教では、「感謝」を強く推奨し、重要な教義としている団体が少なくない。
不満ばかり言っていないで、現状を受け入れ感謝する。
「空気なんて、あって当たり前で、普通、感謝することなどないですが、無ければ生物は生きることができません。空気が当たり前のようにある現状に感謝しましょう」
一見、何の問題も無いように見える。当たり前だと思っていて、気にも留めないことに気づいて感謝する、それは良いことであろう。
しかし、感謝、感謝、感謝と感謝ばかりしていると、それは盲信、狂信へと繋がって行くことになる。
例えば、教祖に心霊治療をしてもらい、病気が治らなかったとしても、
「教祖様が治そうとしてくれただけでも、大変ありがたいことだ」
と感謝するようになる。
また、教祖様から「真の教えを広める為に、お布施をしなさい」と言われれば、
「救世活動に使っていただければ、こんなにありがたいことはない」
と喜んでお金を差し出すようになる。
信者たちを「感謝の極致」にしておくと、教祖や教団にとって非常にコントロールし易いことが分かるであろう。
「感謝の極致」とは、上述のように、「完全な現状肯定で不満のない状態。全てを受け入れる状態」であり、また、対象の良い点を無理やりにでも見つけ出す状態である。
そのような状態だと、もし、教祖が白いものを黒だと言っても、「教祖様が言うのだから間違いない」と肯定して受け入れてくれるのである。
また、もし、教祖が明らかに間違ったことを言ったとしても、そんなことは見ないふりをしてくれる。「感謝の極致」では、良い点を無理やり見つけ出して感謝し、一方で、悪い点は見ないで無視するようになるからである。
さらには、教祖に「あいつは、神の敵だから、救世のために殺して来い」と言われれば、
「ああ、私のような者を、このような重要な役目に選んで下さって、ありがとうございます!」
と感謝して、喜んで実行するようになるのである。
よって、「感謝の極致」は、「マインド・コントロールが完了した状態」と言うこともできるだろう。
5.「感謝の極致」における人の退化
(その1)では、「感謝の極致」では「自分の成長・進歩がない」と述べたが、そのような状態が続いていると、むしろ、人として退化を始める。
「感謝の極致」は、教祖が言うことを何でも感謝して受け入れ、そして、鵜呑みにする状態である。
そして、教祖の教義や霊能力を否定する意見があっても、そんなものは無視するか、もしくは、無視しきれない場合は、「反論になっていない反論」や詭弁を使って否定する。もし、そんなものを受け入れてしまえば、教祖に感謝ができなくなるからである。
また、もし、自分の考えたことと、教祖の考えが違っている場合は、もちろん教祖の考えを優先し、「やっぱり、教祖様はさすがだ。我々とは違う」と考えて、感謝をする。
このようにして、自分の判断・考えは自分の中で意味をなさなくなって行き、「正しいのは教祖様だけ」になる。
結果、「感謝の極致」に置かれた信者たちは、教祖の言うことを何でも受け入れ、かつ、教祖の指示・アドバイス無しには何もできない人間へとなって行くのである。このような状況を簡単に言えば、「アホになった」と言えるだろう。
これを人としての退化と言わずに、何と言えるだろうか。
そして、このような退化を遂げ、アホになった信者こそ、教祖や教団にとって、最も都合の良い信者なのである。
6.「怨嗟」も利用する宗教
上記では、宗教が利用するのが「感謝」であると記載したが、実は、宗教は「怨嗟」も利用する。
ただし、宗教でも設立して間もない時点では、通常、「感謝」のみで「怨嗟」は利用されない。
団体がまだ小さく、かつ、信者のマインド・コントロールが未達成の状況で、教祖が、教祖を批判する者たちに対して恨みごとを言ったり、非難したりすると、教祖の人格が低いものとのイメージを与えてしまう。それは、団体の成長にマイナスである。
むしろ、相手にせずにドンと構えていた方が、度量の大きさを示すこととなって効果的であると言えよう。
そして、「怨嗟」が利用され始めるのは、通常、信者がある程度集まって、一定のマインド・コントロールが済んでからであり、特に、団体の成長に陰りや限界が見え始めた時からが顕著である。
それは、以下のような、教祖や教団への不満が信者たちに漠然と蔓延し始め、もはや、「感謝」のみでは、多くの信者をコントロールできなくなるからである。
「救世主の教祖様の言う通りにやってきたのに、何故、理想は実現しないの?」
「教祖様は、X年頃には、○○になると予言していたのに、なぜ、その予言は実現しなかったの?」
「Aさんは、教団立ち上げの時からの信者だったのに、見切りをつけて辞めていった。本当に、この教団にいて大丈夫なの?」
そして、このような不満を、教祖や教団以外に向けさせる方法が、外に敵を作って「怨嗟」させることなのである。
例えば、次のような言葉が使われる。
「マスコミがウソの情報を流し、邪魔をしているからだ」
「悪の教団Bが邪魔をしているからだ」
「脱退した元信者のAが、ユダとなって我々を裏切り、妨害活動を行っているからだ」
この例で言うと、外の敵とは、「マスコミ」、「教団B」、「元信者A」である。
そして、このような敵を作り出すことは、理想が実現しないことへの言い訳にもなる。
さらに、次のように信者たちに言えば、教団に属さない全ての人間が批判の対象となって、敵となる。
「教祖様を認めない人間は心の曇った人間で、悪魔の手先と同じだ。みんな地獄へと落ちる」
このようにして、信者たちに、教団の外に対して「怨嗟」を向けさせれば、信者は外部の言うことには一切、耳をかさなくなる。
何故なら、「怨嗟の極致」は上述の通り、「完全な現状否定で不満しかない状態。全てを否定する状態」だからある。
教団の内に対しては「感謝」を向けさせ、一方、外に対しては「怨嗟」を向けさせる。
それに成功すれば、教祖や教団の言うことにしか耳をかさない、完全な盲信・狂信の信者の出来上がりである。
※「感謝と怨嗟 〜感謝のもつ危険性〜 (その3)」へと続く。
2011.2.17新規
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