魔境――。
広辞苑によると、「@悪魔のいる所。また、神秘的で恐ろしい場所。A(遊里など)人を誘惑する所。魔窟。」を意味する言葉であるが、当記事で述べたいのは、より限定的に、仏教の禅で使用される用語としての魔境である。
Wikipediaではその魔境について、次のように説明されている。
Wikipedia「魔境」より
魔境とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。 |
ここにある通り、魔境とは、「禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態」で、「自我が肥大し精神バランスを崩した状態のこと」である。
そして、「自我が肥大し精神バランスを崩した状態」について、より具体的には次のように記述がなされている。
Wikipedia「魔境」より
臨済は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えている。これは、瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った結果「自分はすごい人間だ」と思い込んでしまい、エゴが肥大してしまうのを防ぐ、すなわち魔境に入ってしまう状態を防ぐための教えだとされている。 |
つまり、「『瞑想により仏陀や如来が現れた』り、『神格を持つものとの一体感を持った結果』、『自分はすごい人間だ』と思い込んでしまい、エゴが肥大してしまう」状態のことである。
そして、そのような状態になってしまうのを防ぐ為に、臨済は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは槍で突き刺せ」、「仏見たなら仏を殺せ」と教えたと述べられている(注)。
(注)
臨済は唐末の禅僧で、正確には臨済義玄(リンザイギゲン)(?-867)。中国禅宗五家の一つである臨済宗の開祖で、臨済宗は鎌倉時代に栄西らの手によって日本に伝わった。
この臨済義玄の言葉を記した『臨済録』に以下の言葉がある。
「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、初めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり。」 |
なお、上記、Wikipediaの説明では、「魔境に入ってしまう状態を防ぐための教え」と記されているが、一般には、魔境とは関係なく、「何ものにも拘るな」という意味での説明がなされることが多いようである。
(参考)Wikipedia(臨済義玄)、Wikipedia(臨済宗)、 |
さて、この魔境を当記事で取り上げる理由であるが、その状態が当HPでツッコミを入れている自称霊能力者たちの状態に近い、もしくは、そのものの状態ではないかと考えたからである。
○中途半端に能力を覚醒
○「自分はすごい人間だ」と思い込んでしまい、エゴが肥大
そして、悟りに至る前の落とし穴として魔境と呼ばれる状態が存在するということを知っておくことは、自称霊能者や自称「悟った人」に遭遇した場合、その真贋を見抜くこと、及び、安易に騙されないことに寄与するのではないかと考えるからである。
それでは、以降で、より詳細に魔境というものを見て行きたい。
1.魔境とは
魔境は前述の通りの意味であるが、その状態は、唯識論で言うところの第七「末那識(マナシキ)」の果てしない煩悩の活動が一挙に吐き出されて現れ出たものだとよく説明される。
唯識論とは大乗仏教の概念で、「この世のあらゆる事象は、人がそうと認識しているだけであり、実際は、心の外に事物的存在はない」とする考え方である。
その唯識論では、心の表象・認識行為を八つに分類し、それを八識と呼ぶ。
八識は、五種類の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)(「前五識」と言う)と意識、及び、末那識、阿頼耶識(アラヤシキ)と呼ばれる2層の無意識のことである。
この八識の一つ第七の末那識(マナシキ)は、無意識の自我や執着、欲望である。
例えば、自分が正しいと思って行った主張を他人から批判・否定されたとする。
相手の批判が正当なものであれば、それを受け入れ自分の主張を取り下げなければならないのだが、詭弁等を使って絶対に認めないような場合が多々ある。それも、末那識の「自分の主張を否定されたくない」という我欲が作用した結果であると言える。
続いて、第八の阿頼耶識(アラヤシキ)は、「意識の蔵」という意味で、自分の過去のすべての経験、つまりは業(ごう)が蓄積されているとされる。そこから自分の肉体や外部の世界などの影像(*)がつくられて無意識下に貯蔵され、その貯蔵された無意識が外に表出されて外部世界が認識されることになる。
(*)影像
心以外の自分の肉体や外部の世界が頭に描き出されて認識された姿。唯識論にて用いられる言葉。
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煩悩や自我、執着等もこの阿頼耶識から生じたものであり、唯識思想では、阿頼耶識を本来あるがままの存在に戻し、間違った認識を排することが迷いを離れて悟りを得ることだとされる。
先述の通り、この八識の第七末那識(マナシキ)が現れ出たものが魔境であり、つまりは、無意識の自我や執着、欲望が表出したものに過ぎない。
よって、禅では、瞑想中に仏陀や如来が現れたり、神格を持つものと一体感を体感したりしても、それを魔境として否定するのである。そのような現象は、自分の我欲や執着が引き起こしたものに過ぎないからである。
<参考>
『禅の本』 (学習研究社/1992.6) (P.148-149)
『図解 仏教のことが面白いほどわかる本』 (田中治郎/中経出版/2002.9) (P.135-136)
『仏教を知る辞典』 (菊村紀彦/東京堂出版/1996.4) (P.199-200)
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続いて(その2)では、より具体的に魔境ではどのような現象が起きるのかを見てみたい。
2014.07.29新規
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