悟りと魔境(その2)
(その1)からの続き


 
当記事では、より具体的に魔境ではどのような現象が起きるのかの事例を見て行きたい。



2.魔境での体験

 (その1)で見たWikipedia「魔境」では、魔境での体験として次の二つがあげられていた。
○仏陀や如来が現れる
○神格を持つものとの一体感を持つ
 他にも書籍『禅と脳』では、臨済宗中興の祖と称される白隠禅師(1686-1769)の体験として次のものが記載されている。
『禅と脳』(有田秀穂・玄侑宗久/大和書房/2005.5) P.68 ※抜粋
○連夜、大きな猫ほどの車輪が、法界定印を結んでいる手の上に現れる。
○数十里飛んで、伊勢の海を越えて紀伊に至った。
○山中でお経を読んでいたときに、空中から美しい音楽が聞こえてきた。
 また、書籍『禅の本』では次のような現象が記載されている。
『禅の本』 (学習研究社/1992.6) P.82 ※抜粋
○目の前にあるものと一体になる。
○宇宙と一体になるような気分になる。

 私が収集できたのは以上ではあるが、素人目には、そのような体験をしても夢や幻と認識できそうな気はする。
 例えば、
「仏陀や如来が現れる」にしても、想像するだけなら誰にでもでき、かつ、その想像したものを現実だとは思わないだろう。

 しかし、魔境での幻は、おそろしくリアリティのあるもののようである。

 書籍『禅と脳』では、著者の一人の玄侑宗久氏の体験として次のように記載されている。
『禅と脳』(有田秀穂・玄侑宗久/大和書房/2005.5) P.67
 私が実際に体験して驚いたのは「臘八大摂心(ろうはつおおぜっしん)」の時です。一日二〇時間半坐りますから、動きたくてしょうがないわけです。
 フロイト的に考えると、動きたい自分というのが外在化した現象と解釈できるのかもしれませんが、
私が箒を持ってそこを掃いているわけですよ。それが夢でも何でもなく目に見えているんですね


※文字に色を付けたのは管理人。

 臘八大摂心・・・禅宗で行われる、釈迦の降魔成道を記念して旧暦12月1日から8日にかけ昼夜を通して行われる接心のこと。また、接心とは、坐禅を修して、精神を一つの対象に集中させ散乱させないことである。(※参考Wikipedia「成道会」、Wikipedia「接心」)
 自分自身の姿が見えたという体験で、「それが夢でも何でもなく目に見えている」と語られている。そして、それが単なる幻とは異なり、リアリティを持って見えたので驚いたのであろう。

 麻薬を使用すると感覚が鋭敏になり、リアルな幻を見ると言う話を聞いたことがあるが、おそらく魔境で見る幻もそれに近いものではないかと思われる。

 そして、事前にこのような話を知っていれば、
「ああこれが魔境か」と考えて否定することが出来るはずである。しかし、そのようなことを知らずに個人で瞑想等をして魔境に突入してしまうと、そのリアルさから「神に会った!」「宇宙と一体になった!」等と勘違いして有頂天になってしまうのもある程度はやむを得ないものかも知れない。

 ただし、(その1)で述べた通り、魔境は己の煩悩や自我が現出したに過ぎないものであり、煩悩等から解放されていれば引っかからないはずである。

 所詮は、自分の欲望が紡ぎ出した幻に過ぎず、仮に神が現れて語り出したとしても、自分の認識や知識を超えた話が出て来ることは無いし、また、仮に宇宙と一体になったような気分になったとしても、そのことで特別な力や知識が得られるわけではないからである。

 冷静に、かつ、客観的に事象を分析すれば、意味のない現象であることにすぐに気づけるはずのものであり、
もし、それに気付けないとすれば、「特別な力を得たい」、「特別な存在になりたい」等という「欲」で目が曇っているからであろう。




 さて、上記で、魔境での体験の具体例を見て来たが、スピリチュアル系やオカルト系の本が好きな人はその具体例が、自称霊能者たちが主張する神秘体験と似ていることに気付いたかも知れない。

 「仏陀や如来が現れる」というような
「何らしかの神様が出現して話をする」というのはオーソドックスなものであるし、また、「宇宙と一体になった」という主張もよく聞くものである。そして、「数十里飛んで、伊勢の海を越えて紀伊に至った」というのは幽体離脱体験と言えるだろう。

 続いて(その3)では、自称霊能者たちの神秘体験というものを見て行きたい。



2014.8.05新規

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