人はどのようにして盲信・狂信に至るか(その1)

 宗教とは何の縁もない人生を送って来たはずの人が、何かのキッカケでインチキ宗教等に入信し、そのまま盲信・狂信状態になってしまうのは良くあることである。

   「私は宗教に興味がないので大丈夫」
   「私は、そんなものに騙されたりしない」

などと考えていても、そんなものは、まず間違いなくアテにはならないと言っていい。

 逆に、そのように考えて、高を括っていればいるほど、「友人の紹介で」とか、「ネットでたまたま目について」などといったキッカケで、そのままズルズルと深みにハマってしまうものである。

 特に、宗教関連やスピリチュアル関連に初めて接する場合、今まで聞いたこともないような考え方や世界観の新鮮さに魅了されてしまうことも多い。そのようなものに対する「免疫がない」と言ってもいいだろう。

 実際のところは、どの宗教やスピ系の自称霊能者も、他の自称霊能者が言っていることを摘み食いして、それっぽいことを言っているだけ。結局は、大した創意・工夫も無く、同じようなことを言っているに過ぎない。

 しかし、そのようなモノに初めて接する人は、その自称霊能者が独自の教えや世界観を自分で創り上げ、また、悟ったからこそ、もしくは、神とコンタクト出来るからこそ、それが出来たのだと勘違いしてしまうことも多い。


 ある程度、そのようなものに騙されてしまうのも、やむを得ないと思われるが、インチキ宗教等は、長く接すればするほど、いろいろとボロや粗が見えてくるものである。

 そして、そのボロや粗が見えた時に気付き、信者であることを速やかにやめれば良いのだが、それらを見て見ぬフリをして信じ続けて行く人も少なくない。

 もちろん、そうなってしまう原因には、教祖や教団側の巧みなマインド・コントロールもあるのだが、当記事では、信者個人の思考や心の動きに着目し、一度、信者になった人が、どのようにして教祖等のボロや粗を乗り越え、盲信・狂信状態になって行くのかを考察して行きたい。



1.<大前提>人は本能的に自分の心を守る

 人が盲信・狂信状態に至る過程を考察する前に、まず、知っておかなければならないことは次の事実である。
人は本能的に自分の心を守る
 人は、自分の身体に害が及びそうになった時、本能的にそれを回避しようとするものである。例えば、道を歩いている時に上から物が落ちてきたら、反射的に頭を手で覆ったり、逃げようとしたりするだろう。

 同じように、人は、自分の心に害が及びそうになった時、本能的・反射的にそれを避けたり、防御しようとしたりする。

 例えば、心理学の初級のテキストでよく取り上げられる、イソップ物語の『すっぱい葡萄』の話を見てみよう。
『すっぱい葡萄』 (※概要)
 キツネが、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つける。
 食べようとして跳び上がるが、葡萄はみな高い所にあり、届かない。何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんな葡萄は、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と捨て台詞を残して去る。

※参考:Wikipedia「すっぱい葡萄
 キツネは、おいしそうな葡萄を見つけ、それを手に入れようとして失敗する。

 そして、その失敗したという事実は、キツネの心にとって痛みとなるので、それをやわらげる為に「どうせこんな葡萄は、すっぱくてまずいだろう」と考えたのである。

 すっぱくてまずい葡萄であるなら、むしろ、手に入れるのを失敗して良かったことになるであろう。もし、手に入れて食べていたら、まずい葡萄を食べて不快な思いをしなければならないからだ。

 このように自分の失敗を正当化し、キツネは自分の心がダメージを受けるのを防御したのである。


 同じような経験は、誰にでもあるはずである。
@.必死に努力して失敗しても、「この努力は、いつか報われる日がくる。決して無駄じゃない」と考える。
A.いつも競馬で負けているが、「金儲けに来ているワケじゃない。美しい馬の姿を楽しみに来ているんだ」と考える。
B.女の子が不良に絡まれているのを見て、見て見ぬフリをしてしまったが、「きっと、あの後、誰かが助けてくれたろう」と考える。

 @とAは、自分の失敗等を、本来の目的以外の利点を見出すことによって誤魔化し、自分の心にダメージを受けるのを避ける例であり、一方、Bは、自分は助けることが出来なかったが、結局、その女の子は助かったんだと考えることによって、心のダメージを軽減した例である。

 また、他にも、
C.事あるごとに「私、バカだから」と言って、「言われなくても、自分で分かってますよ」とアピールし、他人からバカだと言われるのを避ける。
 Cは、かつて、他人からバカだと言われて心にダメージを受けたので、再び同じことが起きないよう、事前に予防線を張っているケースである。

 さらには、
D.家では妻や子供に馬鹿にされているが、会社では威張り散らしている
E.赤の他人には残酷で非情だが、自分の家族や仲間には情が厚い
というような例もある。

 これらは、両極端の対応をとって心のバランスを保っている例である。

 例えば、@は、バカにされているだけでは、心は耐えることができなくてストレスが貯まる一方である。そのストレスを会社で威張り散らして発散し、また、そうすることによって自分の偉さを確認して、心のバランスを取っていると言える。

 また、Aは、人に対して悪い事ばかりしていては心のバランスが取れないので、自分の家族や仲間に対しては、人情深く接してバランスを取っているのである。


 以上のような、誰にでも覚えがあるようなこのような行為は、通常、意識的に行っていることではなく、無意識に行っていることである。

 わざわざ、「あ、やべっ、このままじゃ、心のダメージが大きいしバランスが取れない。何とかしなきゃ!」なんて考えてはいない。

 そして、このような作業を
無意識に行っているというのが、やっかいな所であると言えよう。無意識であるからこそ、人は容易にはそれを認識できない。

 さらには、このような、無自覚の
「心の自動防衛システム」が、悪い方に、そして、過剰に働けば、盲信・狂信へと繋がって行くことになるのである。




2.信者が信仰を否定する事実に接した場合、どう対応するか


(1).確信と人格

 以下では、ある宗教団体の信者が、どのようにして、無意識に「心の自動防衛システム」を稼働させながら、盲信・狂信状態へと陥っていくのかを、例を使って説明して行きたい。
<例>信者Aさんのケース1 (※管理人が創作したフィクション)
 Aさんは、友人からある宗教団体を紹介された。

 その友人の話によると、その宗教団体の教祖こそ真の救世主であり、また、教えも素晴らしく、あらゆる神とコンタクトできたりして、霊能力もすごいらしい。

 そして、「騙されたと思って一度、読んでみて欲しい」と友人から言われ、Aさんはその教祖の著書を受け取った。

 Aさんは、最初は半信半疑であったが、その本を読んで大きな感銘を受け、その教祖の講演会に参加するようになった。

 そのうち、Aさんの中で、「これはホンモノだ」という確信が強くなって、「自分も、この教祖様の下で神の道を歩みたい」と思うようになり、その宗教団体に入信することを決意した。
 上記は、Aさんが入信するまでの過程を描いたものである。

 通常、人は、「友人の紹介だし、ま、とりあえず入信してみようかな」なんて軽い気持ちで信者になったりはしない。特に、それまでそのような世界と無縁の人生を送ってきた人はそうである。

 それが、入信に至るということは、それ相応の「ホンモノだ」という確信を持ったからであり、この
「確信」「心の自動防衛システム」と連動して、非常にやっかいな作用をもたらすことになる。

 
「確信」を持つということは、「自分の中で真実のものとして受け入れた」ということに他ならない。そして、その「確信」は、自分の人格の一部となってしまうのである。

 例えば、ある小説を読んで、「近年稀にみる素晴らしい小説だ」と強く思ったとしよう。その時点で、その思い、つまり、「自分の、その小説が素晴らしいものだという評価」」は自己の人格の一部となる。

 よって、その小説が高い評価を受けているのを見ると、「やっぱりそうか」と喜ぶし、逆に、その小説がボロクソな評価を受けていると、「自分の評価がおかしいのかなぁ」と悲しい気分になったり、また、逆にムッとして「こいつは、小説の良し悪しが全く理解できていない!」等と反発したりするのである。

 まさに、自分自身への評価と同じ反応になっていることが分かるであろう。

 それは、「自分の、その小説が素晴らしいものだという評価」が他から肯定されたり否定されたりすることは、自分自身の一部が肯定されたり否定されたりすることと同じだからである。

 さらに、この小説の例では、自分の内の「小説を見る目」という部分を肯定されたり、否定されたりするだけだが、宗教の場合は、それだけでは済まない。

 宗教というものは、生き方や在り方を説くものであり、それは、人の全人格を規制するものである。

 よって、
自分が確信を持って、その教えを実践している宗教を否定されることは、自分の全人格を否定されることと同義なのである。


 さて、宗教団体に入信することを決意したAさんの話の続きを見て行きたいが、以降は(その2)にて記載したい。


2012.4.24新規

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