人はどのようにして盲信・狂信に至るか(その2)

 ※当記事は(その1)からの続き。



2.信者が信仰を否定する事実に接した場合、どう対応するか

(2).自己欺瞞による正当化

 宗教団体に入信することを決意したAさんの話の続きである。
<例>信者Aさんのケース2 (※続き)
 ある宗教団体の教祖を「ホンモノだ」と確信を抱き、その宗教に入信したAさん。1年程、その教祖の教えを勉強したり、教団の活動に参加していたりしていたが、ある日、その確信に疑問を投げかける事実に直面する。

 教祖に子供が生まれたのだが、教祖は、その子供が大天使ミカエルの生まれ変わりだと宣言したのだ。

 子供が誰の生まれ変わりかを宣言したこと自体は何の問題もない。
 あらゆる人の前世が分かる教祖なのだから、自分の子供の魂が何者かぐらい分かって当然だろう。しかも、教祖は救世主なのである。大天使ミカエルが子供として生まれて来ても全然おかしくない。

 しかし、Aさんの記憶が正しければ、以前、教祖は、教団の幹部の一人が大天使ミカエルだと言っていたはずであった・・・
 信者Aさんの心には、不協和音が鳴り始める。

 通常、ある魂が同時に二人に生まれ変わることは無いのだから、「大天使ミカエル=教祖の子供」、もしくは「大天使ミカエル=教団幹部」のどちらかがウソであることになる。

 これは、「教祖がホンモノである」という自分の「確信」を揺るがす事実であり、その「確信」が誤りであることを認めるか否かでAさんの心は揺れ始めるのである。

  「教祖の霊能力ってインチキじゃないのか?」
  「我々は皆、騙されてるだけじゃないのか?」
  「教祖を信じてやってきたことは、全て間違いじゃないのか?」

 己の「確信」が誤りであることを認めること、それは非常に勇気のいることである。

 何故なら、(その1)で記載した通り、「確信」は自分の人格そのものであり、自分の「確信」が誤りであると認めることは、自分の人格そのものを否定することに他ならない。
 しかも、自分の人格そのものを否定することによって、心には大きな傷を負うことになる。


 自分の「確信」を否定することは、そのような傷を覚悟の上で行う必要があることなのである。


 このような局面において、人がとる行動は主に次の4つに分けられる。
@.<自己欺瞞>深く考えずにスルーする。
A.<自己欺瞞>もっともらしいだけの理屈で勝手に納得し、問題ないことにする(結局、スルー)。
B.<判断保留>己の「確信」が誤りである可能性を認めるが、判断は保留する。
C.<自己否定>己の「確信」が誤りであることを認める(自己の「確信(=人格)」の否定)。
 @は、自分の心に生じかけた疑問を意識の深層へと追いやり、スルーして考えないようにするケースである。

 無視することによって、自分の「確信」を揺るがす事実には向き合わない。そうすることによって、自分の「確信(=人格)」は傷つけずに済むが、それは自己欺瞞に他ならない。

 Aは、一応、自分の「確信」を揺るがす事実に向き合うことは向き合うのだが、上記のAさんの話で言えば、「大天使ミカエルほどになると、多くの分霊を持っていて、一度に二人に生まれることも可能なのだろう」等と考えて、問題ないことにしてしまうケースである。

 結局、自分の「確信」を守る為に、根拠脆弱な理屈や詭弁等で自分勝手に納得するだけなので、やはり、これも自己欺瞞である。

 Bは、教祖の発言がおかしいことは認めるが、自分の「確信」を否定するには至らず、最終判断は保留するケースである。

 Aさんの例で言えば、これだけの情報だけで結論を出すのは、無理と言えば無理であろう。教祖の言い訳も聞いてみたいところであるし、また、もっと他の、怪しさを裏付ける事例も欲しいところである。

 Cは、「自分の子供が生まれたら、今度は、自分の子供をミカエルにするなんて、ダメだこりゃ」などと考えて、自分の「確信」が誤りであることを認めるケースである。

 おそらくは、それまでに、「教祖の言動にある程度、疑問を持ちつつあった」というような状況になければ、ここまでは至らないだろう。

 少しずつ己の「確信」に疑問を持ち始めると、その「確信」は徐々に自分の人格からは切り離されて行く。疑問が大きくなればなるほど、それは「確信」では無くなるからである。

 そうして、自分の人格から切り離されつつあって、過去のモノとなりつつある「確信」は、比較的小さな心のダメージで否定できることになる。


 さて、Aさんの場合は、どのような対応をしたのか見てみよう。
<例>信者Aさんのケース3 (※続き)
 Aさんは、無視してスルーすることも出来ず、また、自分の中でもっともらしい理由を思い付くことも出来ず、友人の信者に聞いてみることにした。

 「教祖様は確か、以前、幹部のBさんが大天使ミカエルの生まれ変わりだって言ってませんでしたっけ?」

 その友人は、「教祖様が間違いを犯すワケがない。きっと、方便だよ」と答えた。

 方便・・・。偉大な教祖様のことだから、何か深い考えがあってのことかも知れない。しかし、深い考えとはなんだろう。

 「方便って、どういう方便だろう?」再び、その友人に聞いてみた。

 「例えば、Bさんを叱咤激励する意味があったとか、とにかく、我々、凡人がうかがい知れないような深いはかりごとだよ」そう友人は答えた。

 その時、その話をそばで聞いていた信者の一人が話し掛けてきた。

 「そんなことに思い悩むより、大切なのは、我々が如何にして自分の修行を進めて行くかだと思うよ。そういう些細なことで心が揺れてしまうのは、自分が未熟な証拠だよ」

 「なるほど、そうですね」Aさんはそう答え、己の未熟さを恥じ、修行に邁進して行くことを決意するのだった。
 Aさんは、結局、「教祖の深いはかりごと」が不明なままの曖昧な解決をしたようである。

 これは、上記の分類では、「A.<自己欺瞞>もっともらしいだけの理屈で勝手に納得し、問題ないことにする」に該当する。

 通常、「大天使ミカエルの生まれ変わりが、幹部から教祖の子供に変更になった」なんて話を聞いたら、誰でも「なんじゃそりゃ」と呆れるはずである。

 しかし、Aさんはそう考えることをせずに、問題ないものとして考えることを止めてしまった。
 そのような行動をとった理由は、主に次の二つである。
A.「自分の『確信』を守っていたい」という無意識下の「欲」によって行動したから
B.周りの人間が疑問視せずにスルーしているから
A.「自分の『確信』を守っていたい」という無意識下の「欲」によって行動したから

 (その1)で記載した通り、自分の「確信」を否定することは、自分の人格を否定することになって、結果、心に傷を負うことになる。

 Aさんは無意識に、そのような危険のある事実に真正面から向き合うのを避け、中途半端な理由で納得して誤魔化したのである。

 当然ながら、そののような行動をとった根底には、「自分の『確信』を守っていたい」とか、「自分の『確信』を否定するような事実に接していたくない」等といったような「欲」があるからである。


B.周りの人間が疑問視せずにスルーしているから

 上記例では、Aさんの友人も別の信者も、大天使ミカエルの生まれ変わりが変更になったことを疑問視していない。

 本来なら、そのような話を聞けば疑問視するのが当然であるが、そのような話を聞いて疑問に思える人は、それ以前に信者を辞めているだろうし、結局、疑問に思わない人が教団に残っていることになる。

 結果、教団内部では、そのような話を疑問視せずに、スルーすることが「常識」となっているのである。

 通常、人は、無意識の内に周りの「常識」(もしくは、「多数の意見」)を受け入れ、自分の「常識」にしているものであり、また、その「常識」を受け入れて多数派に属することによって安心を得ている。

 特に、その「常識」が自分に都合が良い場合は、人は喜んでその「常識」を受け入れることになる。

 Aさんの場合、教祖のおかしな発言を問題視しないという「常識」が、自分の「確信」を守る上で都合が良かったから、そのような「常識」を簡単に受け入れたのである。


 なお、宗教団体の中では世間から乖離(かいり)した「常識」(つまりは「非常識」)が形成され易いものである。

 それは、教団内部は基本的に、「教祖様はホンモノだ」、「入信したことは正しい選択だ」等という、教団外部とは異なる、共通の「確信」を持った人達の集まりであり、その共通の「確信」を守るのに都合の良い「常識」が形成されるからである。



 以上のような理由で、教祖のおかしな発言を最終的にスルーしてしまったAさん。

 ちなみに、このような対応を選択したことで、Aさんの中では、教祖のおかしな発言に対してのバイパス(=己の「確信」を守り、信仰道を走り続けて行く為の迂回(うかい)路)が出来てしまったことになる。

 例えば、教祖が再び、他の人の前世を変更しても、特に障害を感じることもなくスルーできるだろう。一度、問題ないものと片付けてしまっているので、バイパスが出来ていて簡単に迂回(うかい)できるからである。

 また、Aさんが教祖の言動を正当化する為に使った「方便だ」とか「深い考えがあってのことだろう」などというバイパスは、非常に便利なものであり、大抵の疑問はそれで迂回(うかい)できてしまうことになる。

 そのようにして、信者は、自分の「確信」を揺るがす障害に遭遇するたびに、過去に作り上げたパイパスを通って迂回(うかい)したり、また、新たなバイパス(=言い訳)を作ったり、他から取り込んだりして、徐々に、盲信・狂信の域に達して行くことになるのである。

 それもこれも、
自分の「確信」を否定する事実に真正面から向き合う勇気や誠実さを持てず、また、「自分の『確信』を守り続けていたい」という「欲」に従って、安易な選択をし続けた結果なのである。
<参考>自分の「欲」に従って、事実を歪めて捉える人の行動については、以下の記事を参照
○記事「目の中の梁 〜『欲』によって、自らの目を曇らせる人達


 さて、Aさんの話はまだ続くが、続きは(その3)にて。



2012.5.1新規

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