『釈迦の教えは「感謝」だった』にツッコミ!(その1) |
書 名 |
釈迦の教えは「感謝」だった |
著 者 |
小林正観 |
出版社 |
風雲舎 |
価 格 |
1429円(税別) |
出版年月 |
2006年4月 |
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●本書概要 |
釈迦が言った「苦」とは、「思いどおりにならないこと」という意味であり、よって、「思いどおりにしよう」とするのをやめ、「受け容れる」べきである。 さらに、「受け容れる」ことを高めていくと「感謝」になる。
結局、釈迦の教えは、「感謝」につながっているのだ。
・・・らしい。
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●ツッコミ |
物事の一部のみに着目し、そこから連想ゲーム的に思考を積み上げて極論に達してしまうのが、教祖様の思考の特徴のようである。
具体的には、以下のツッコミを参照されたい。
努力の「努」という字は、奴隷の「奴」に「力」と書いて、「努」となります。奴隷の「奴」という字は、女偏に「又」と書きますが、「又」というのは「手」の象形文字です。手が開いた状態が、「又」という文字の元になりました。奴隷の「奴」は女手という意味になります。女奴隷の力ということになります。
努力の「努」とは、「奴隷にむりやり強制して力を出させること」。これが努力の「努」になりました。奴隷に命令をし、嫌がる心をむりやりやらせる、その時の「奴隷」の「心」を「努」というふうに書きます。
つまり「努力」とは、「嫌がるものをむりやりやらされること」というのが本来の意味でした。
「ぼくは努力が好きなんです。私は努力が好きなんです。好きなんだからやってもいいじゃないですか」というふうに言ってくる人がいます。努力が好きな人がいてもいいのですが、本来の言葉の意味からすると、努力が好きという場合には「努力」と言いません。嫌がるものをむりやりさせられた時に「努力」と言います。
〜(中略)〜
ですから、「ぼくは努力が好きなんです。私は努力が好きなんです。だから、努力をしてもいいじゃないですが」というのは、本来意味が通じません。それは「努力」という言葉にはなじみません。「努力」とは「嫌がるものをむりやりやらさせること」というのが本来の意味なのです。(P.49-51)
(注)青字にしたのは管理人(以下同様) |
努力の「努」の字を分解し、漢字の成り立ちに遡った上で、「『努力』とは『嫌がるものをむりやりやらさせること』というのが本来の意味」であると主張。
こんなふうに、ある言葉を辞書に載っている意味で使用していると、それに対して漢字の成り立ちにまで遡って否定されたら、たまったものではない。
後述するように、教祖様は努力というものを否定しているようで(少なくとも肯定的に捉えていない)、その主張を正当化しようとして見つけた根拠の一つが、この「努」の字の成り立ちだと思われる。
そして、たまたま、「努」の字の成り立ちが自分の主張に都合が良かったから遡っただけで、全ての言葉について同じように「本来の意味」とやらを考慮した使い方をしているわけではあるまい。
自分の都合の良い時のみ、ある概念・考え方等を使用して、それ以外の時は無視する。このような態度、考え方を「ご都合主義」と言う。
親は自分に、「この子を学校に行かせる。行かせなくてはいけない」
という思いがあるものだから、不登校が悩み・苦しみになってくるのですが、その子が不登校という結論を選んだことを丸ごと受け容れてあげたならば、そこに悩み・苦しみは生じません。
つまり、自分以外の人間が自分の思いどおりにならないこと、そして自分の思いどおりにしたいことが、実は悩み・苦しみの本質であったのです。
子供が不登校になった。
では、それを受け容れればよいではありませんか。
不登校である間、親がずっと味方であるのだということを示し続ければ、子供はほんとうに安心して信頼して、心を開いてくれるかもしれません。
つまり大事なことは、
自分の思いどおりにすることではなくて、受け容れてあげること、受け容れることなのです。(P.54-56) |
ま、そりゃ、子供の不登校を問題とは考えずに、そういうものとして受け容れたら、悩み・苦しみは生じないだろうけどね。
そして、受け容れた後、どうすれば良いのかと言うと、
「不登校である間、親がずっと味方であるのだということを示し続ければ、子供はほんとうに安心して信頼して、心を開いてくれるかもしれません」
と、不確定な希望的観測だけが提示される。心を開いてくれるのを期待して待つようだ。
まあ、頭ごなしに否定するだけと言うのもどうかと思うが、教祖様の教えでは、全く否定せずに受け容れるだけらしい。子供にしても、親に叱って欲しい時や、背中を押してもらいたい時もあるだろうに。
教祖様の信者の子供たちは、ひきこもり・ニート率が高そうである。
釈迦が「苦」という言葉として残したものは、実は「思いどおりにならないこと」であったのです。不幸や悲劇、病気や事故というような、向こうから勝手に降ってくるというものは、釈迦が残した「苦」ではありませんでした。(P.68) |
教祖様は、釈迦の説いた「苦」を「思いどおりにならないこと」と定義した上で、 「不幸や悲劇、病気や事故」を「苦」から外す。
「不幸や悲劇、病気や事故」も「思いどおりにならない」ことにしか思えないのだが、教祖様によると、何故か、釈迦の言った「苦」の中には入らないらしい。
そして、この「苦」に関する説明は次のように続く。
玄奘が「苦」と訳したその訳語が日本に入って、「苦」という形でお経とともに伝わりましたが、実は、その「苦」が訓読みされて、「苦しみ」という意味にとらえられました。
その苦しみの中には、自分の思いとは関係なく、勝手に向こうから降ってくるもの、つまり病気や事故や災難やトラブルというもの全部を含んで「苦」と呼ぶようになってしまいました。日本の言葉の歴史の中で、「苦」の意味が、間違って解釈されるようになったのです。本来、釈迦が伝えたかった「苦」の意味とは違う形で伝わるようになってしまったのです。(P.68-69) |
「その苦しみの中には、自分の思いとは関係なく、勝手に向こうから振ってくるもの」を「『苦』と呼ぶようになってしまいました」とある。
逆に言えば、「自分の思いと関係あるものが『苦』」ということで、つまりは、「苦」とは、自分の思いであって、「苦」の原因となるものはそれには含まないと言うことだろうか。
しかし、釈迦が説いた「四苦八苦」の四苦は、生・老・病・死。
教祖様が本来の「苦」とは違うと言っている「病気」が思いっきり入っている。そもそも、釈迦の説いた四苦は、「自分の思いとは関係なく、勝手に向こうから振ってくるもの」に当たるであろう。
また、教祖様が本来の「苦」から外している「自分の思いとは関係なく、勝手に向こうから振ってくるもの」は、最初に言っていた、「思いどおりにならないこと」と同義であろう。ワケが分からない。
「本来、釈迦が伝えたかった「苦」の意味とは違う形で伝わるようになってしまったのです」とまで言い切ってしまっているが、何を言っているんだろう、教祖様は?
さすがに、教祖様も「四苦八苦」のことは知っているようで、上記から少し飛んで、以下の通り、その説明が始まる。
釈迦が定義した「苦」
生まれること。これは自分の思いどおりにならない。
老いること。老いたくない、年をとりたくないと思っても、自分の思いどおりにはならない。
病むこと。病気をすることも、自分は病気をしたくないと思っているのに病気をする。思いどおりにならない。(P.70-71) |
うわっ、ついさっき、「病気」は「苦」じゃないと言ってたのに、今度は、「釈迦が定義した『苦』」の中に入れてしまった。
そして、さらに「四苦八苦」についての説明が続いた後、
つまり苦しみとは、災難や悲劇という意味ではなくて、「思いどおりにならないこと」という意味だったのです。(P.72) |
と、最初に言っていた、「苦」には当てはまらないものから、「病気」を抜いた上で、まとめ。(ちなみに、「不幸」も抜けている)
何を言ってるんだか。。。
「苦」を「思いどおりにならないこと」と定義するなら、当然、病気を含め、災難や悲劇も含まれてくることになる。それをワケの分からない思考で無理やり外すから、上記のような支離滅裂な主張が出来上がることになるのである。
さらに、この、「苦」=「思いどおりにならないこと」という定義は、次のように発展して行く。
そうとらえるなら、東洋的な、釈迦的な解釈で、悩み・苦しみをゼロにする方法が浮かび上がってくるではありませんか。
つまり、「思い」を持たないこと。
「思い」がなければ、人間は悩み・苦しみを持つ必要がなくなるのです。思いがなくなるということはイコール、受け容れることにほかなりません。
〜(中略)〜
すべてを受け容れることができたら、実は悩み・苦しみというものが存在しないのではないでしょうか。(P.72-73) |
「苦」=「思いどおりにならないこと」という定義から、今度は、「『思い』を持たないこと」と「受け容れること」に広がって来た。
上でも述べた通り、思いを持たなければ、確かに「苦」は無くなる。しかし、一方で、喜びもなくなるし、成長もなくなってしまう。
そして、この、教祖様の思考の広がりは、まだ続く。
以下の通り、教祖様によると、「受け容れること」は、最終的には「感謝」になるらしい。
釈迦の教えたことは、
「思い」を持たなければ楽になれるでしょう。
「思い」を持てば持つほど、悩み・苦しみが増えるのですよ。
「思い」を持たないで、今、目の前に自分を囲んでいる状況があれば、それを受け入れたらどうですか。
これが釈迦が提案したことだと思います。
このように、実は受け容れることをずっと高めていくと、仕方なく受け容れるところから、次第に喜びを持って受け容れる、幸せを持って受け容れる、そして、感謝の心で受け容れるというところまで、人間は受け容れる心を高めることができるように思います。
。(P.127-128) |
釈迦の教えの究極は、実は、感謝することだった。ありとあらゆることに感謝することが受け容れることであり、受け入れることの最高峰が感謝なのです。(P.193) |
なるほどね。
こういう論理展開で、本書の題名である『釈迦の教えは「感謝」だった』に繋がるわけか。
教祖様の論理展開を、簡単にまとめると以下の通り。
@.釈迦は「苦」という概念を説いた
A.「苦」とは、「思いどおりにならないこと」である
B.思いどおりにしようとするから苦しむのであって、苦しみをなくすには「思い」をなくせばいい
C.「思いがなくなること」=「受け容れること」
D.「受け容れること」の最高が「感謝」だ
E.よって、釈迦の教えの究極は「感謝」だ |
なんか、「風が吹けば、桶屋が儲かる」的な論理である。
さて、どこから、ツッコもうか。
まず、釈迦は、「受け容れること」など、説いていない。むしろ、その逆だと言っていいだろう。
釈迦は、人間を苦なる存在であると説き、人が生きて行く上で受ける苦しみを「四苦八苦」と定義した。
このような考えは、人間否定、そして、生きることの否定であり、むしろ、現状否定から釈迦の考えはスタートしていると言って良いだろう。
そして、その上で、そのような苦しみから逃れる方法を説き、さらに、苦しみの輪廻から解き放たれるための解脱の方法を説いたのである。
つまり、釈迦が説いたのは、この世を否定し、そこから逃れる方法である。全く、受け容れてなどいない。
また、釈迦は、弟子たちに出家させたが、これは、今ある通常の生活を受け入れずに否定したからに他ならない。
次に、教祖様が言っている、「『思い』をなくせ」であるが、釈迦はこんなことは言っていない。
釈迦が苦しみから逃れる方法の一つとして説いたのが「八正道」であるが、その一つに「正思惟(せいしい)」がある。
それは、財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等の「五欲」にまつわる思惟の否定であり、そのような欲やエゴに基づかずに正しく思惟することである。
例えば、上で引用した不登校の子供に対する親で言えば、「不登校なんて近所や親戚に知れたら恥ずかしい、絶対に登校させなければ」なんて考えるのは、自分のエゴに基づいた思惟であると言えよう。
一方、「学校に行かないのは、どう考えたって、子供の将来にとってマイナスだ。何とか問題を取り除いて、登校できるような状況にしてあげなければ」というのが、正しい思惟となるだろう。
このように、釈迦は、「『思い』を無くせ」などとは言っていない。「正しく思え」と説いているのである。
以上、教祖様による、釈迦の代弁内容がおかしいことは明らかであろう。「釈迦の教えの究極は、実は、感謝することだった」などと言うのは、全くのデタラメである。
まあ、そもそも論として、スタート時点で支離滅裂なのだから、そこから、いくら論理を積み上げたところで、誤った結論にしかたどり着けないのは当然であろう。
教祖様は、釈迦が言ったことの一部を抽出し、その部分だけに着目して他は無視し、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な発想で無理な理論を積み上げ、そのような極論・暴論に達しただけなのである。
教祖様へのツッコミは、(その2)へ続く。
2011.3.9新規 |