『釈迦の教えは「感謝」だった』にツッコミ!(その2)

 ※当記事は(その1)からの続き。



 思いどおりにしよう、思いどおりにしたいと思えば思うだけ、逆に、「感謝」というところからは遠いところにいる。
 これが宇宙の法則であり、宇宙の真実です。
(P.165)
 曲解によって、釈迦の言ったことを勝手に代弁した教祖様は、今度は「宇宙の法則であり、宇宙の真実です」とまで言い出した。
 どこまで飛躍するのやら。。。

 ちなみに、ここでは教祖様は、
「『思いどおりにしたいと思うこと』と『感謝』が正反対のところにある」という旨のことを言っているが、それは、単なる、言葉の概念・定義の話であって、「宇宙の法則」やら、「宇宙の真実」と言えるシロモノではない。


 宇宙を味方にする最良の方法とは、ありとあらゆることに不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わないこと。否定的、批判的な考え方でものをとらえないこと。これに尽きるのです。

 
宇宙は努力や頑張りをまったく評価してくれないようです。努力をしている人、頑張っている人で思うようにならない人は、世の中にたくさんいます。宇宙は努力や頑張りを評価の対象としていないようです。

 〜(中略)〜

 すべてのことに対して「嬉しい、楽しい、幸せ、愛してる、大好き、ありがとう、ついてる」というような肯定的な言葉でものをとらえることが、宇宙を味方にする最短で最善、最良の方法のように思えます。
(P.167-168)
 教祖様によると、「宇宙を味方にする最良の方法とは、ありとあらゆることに不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わないこと」らしい。

 このような、一切の不平不満を無くし、かつ、全てを受け容れて、感謝のみを推進する教えの危険性については、以下の記事で述べたので、そちらを参照願いたい。

     ○記事「感謝と怨嗟 〜感謝のもつ危険性〜(その1)
     ○記事「感謝と怨嗟 〜感謝のもつ危険性〜(その2)
     ○記事「感謝と怨嗟 〜感謝のもつ危険性〜(その3)

 また、教祖様によると、「宇宙は努力や頑張りをまったく評価してくれない」らしい。

 ちなみに、釈迦が説いた「八正道」の1つに「正精進」があり、それは、間違った生活を捨てて正しい生活を営むためには、ひたすらな努力が必要であるとするものである。釈迦は努力の大切さを説いている。


 他にも、教祖様は次のようなことも主張している。
 人間がほんとうに心の底から幸せを感じられるのは、喜ばれた時です。喜ばれると嬉しい。喜ばれる存在になること―――実は、これが私たち人間に生命と肉体が与えられたことの意味でした

 
喜ばれる存在になることとは、もう少し庶民的な言葉で言い換えると、いかに頼まれやすい人になるか、いかに頼まれごとをするかということになるのです。人の間で生きていて人間、自分がどれほどの達成目標や努力目標を立てて、そこに到達するかということではなくて、人の間でいかに喜ばれる人であるか、いかに喜ばれる存在であるかということが、人間としての価値のように思えます。(P.150-151)
 教祖様によると、「喜ばれる存在になること」「私たち人間に生命と肉体が与えられたことの意味」らしい。

 そして、「喜ばれる存在になること」を言い換えると、「いかに頼まれやすい人になるか、いかに頼まれごとをするかということになる」らしい。

 頼まれることは、「喜ばれる存在になること」の一面にしか過ぎないだろうに。
 例えば、喉が渇いた時に、水は喜ばれる存在であるが、別に頼まれやすい存在ではない。

 どうも、この教祖様は、極端に単純化するのが好きらしい。

 また、「自分がどれほどの達成目標や努力目標を立てて、そこに到達するかということではなくて」と言っているが、喜ばれる存在になろうと思えば、それが達成目標や努力目標になるだろうに。

 何を言っているんだ??


 さらに、教祖様は次のようなことも言っている。
 問題はとてもとても簡単。「問題だ、問題だ」というふうに言っている自分のその感性を完全に止めることにあるのです。(P.174)
 問題だと考えること、そのものがNG。そのような「感性を完全に止め」れば良いらしい。


 さて、ここで、これまで引用してきた教祖様の教えをまとめてみよう。
○苦しみを無くすために、「思い」をなくせ
○不平不満を一切なくし、感謝でもって受け容れよ
○努力や頑張りは無意味。達成目標や努力目標を立てるな
○喜ばれる存在になることは、頼まれやすい人になることだ
○何かが問題だと言う、その感性を完全に止めよ

 このような、教祖様の教えを完璧に守った信者というものが、どのような状態になっているかを想像してみよう。
 完全な思考停止状態で、努力をすることはおろか、目標を立てることすらしない。
 そして、教祖の言うことは、全て感謝をもって受け容れ、もし、教祖様があからさまにおかしなことを言ったり、行ったりしても、それを問題だとは思わない。
 さらに、喜ばれる存在になるために、頼まれやすい人になり、教祖様から頼まれたことは喜んで実行する。。。
 ただの、教祖様の言いなりのロボットである。




 以上、最初に記載したように、教祖様は、物事の一部のみを見て、そこから連想ゲーム的に思考を展開して極論に達するタイプの人物のようである。

 「『思い』をなくせ」というのも極論。「不平不満をなくせ」というのも極論。「努力や頑張りが無意味」というのも極論。

 ただ、これらも、あるケースでは有効な場合もある。

 例えば、ある出来事をいつまでも引きずっていて、そこから一歩も前に進めなくなっているような人に対しては、「その出来事に対する『思い』をなくせ」と言うのも有効であろう。

 また、何事にも文句ばかりを言って、一切満足しないような人に対しては、「不平不満を言うのをやめなさい」と言うのもアリである。

 そして、取り憑かれたかの如く、頑張り過ぎているような人に対しては、「一旦、頑張るのをやめなさい」と言うのも良いだろう。

 しかし、これらは全て、ケース・バイ・ケースの話である。

 一方、このような、ある場面でのみ有効な事柄を、全てに適用してしまおうと言うのが教祖様の主張であり、それは、単なる極論・暴論でしかない。

 そして、このような極論・暴論を主張している教祖様に付いて行って、行きつく先は上述の通りである。




2011.3.9新規

部分部分の主張を見ると、一見、もっともらしく見えても、全体を総合して見ると、トンでもないことを言っているってのは、よくアルことだゾ。