人はどのようにして盲信・狂信に至るか(その5)

 ※当記事は(その1)(その2)(その3)(その4)からの続き。



4.<まとめのまとめ>「客観的事実」と「主観的願望」

 (その4)にて、盲信・狂信に至らない為に注意すべき点として以下のものをあげた。
(1).安易に確信を持たない
(2).多数意見や常識を安易に受け入れない
(3).熱狂に飲み込まれない

 そして、これら全てのキーポイントとなるのが、「如何に、客観的に物事を考えられるか」である

 客観的に考えることが出来れば、安易に100%の「確信」に至ることもないし、己の判断力を過信することもないだろう。また、安易に多数意見に流されることもなく、おかしいことはおかしいと判断できるし、熱狂に飲み込まれたりもしない。

 そして、
「客観的な考え方」と真逆に位置するのが、「主観的願望に基づいた考え方」である。

 インチキ宗教に騙され、盲信・狂信に至る人は、例えば次のような「主観的願望」、つまり、「欲」に基づいて物事を考え、その結果として盲信・狂信に至るのである。

  ○自分の「この教祖様はホンモノだ」という「確信」を守っていたい
  ○「確信」を否定することによって、心にダメージを受けたくない
  ○入信後、信じて行ってきたことが誤りだとは思いたくない
  ○他の人をこの宗教に勧誘して入信させたが、それを誤りだとは思いたくない
  ○教祖様は完璧な救世主であって欲しい
<補足>「教祖様は完璧な救世主であって欲しい」
 5番目のものは、少しピンと来ないかも知れないので補足しておきたい。

 信者は、教祖に自己を投影し、教祖が受ける他からの称賛や栄光などを自分も味わっているものである。

 それは、例えば、TVののスーパーヒーローの活躍に一喜一憂したりするのや、自国のサッカーチームがワールドカップで大活躍すると大喜びしたりするのと同じ原理である。
 自分が活躍して栄光を勝ち取ったワケでもないのに大喜びするのは、そのスーパーヒーローやサッカーチームに自己を投影し、栄光を一緒に味わっているからである。

 そして、自己を投影しているスーパーヒーローやサッカーチームが惨めな敗北を喫すれば、不快を感じ、「そんなものは見たくない」と思うのと同じように、「教祖のマヌケな言動やおかしな言動は見たくない、認めたくない」という「欲」が自分の中に生じるのである。
 このような「主観的願望」に基づいて物事を考えるから、本来ならインチキだと気付ける場面で、気付くことができないことになるのである(というか、気付きたくないだけなのだが)。

 例えば、「教祖が女性幹部と不倫している」という情報に接しても、上記のような「欲」に基づいて判断し、安易に「デマカセだ!」と決めつけたりすることになる。


 また、(その2)で記載した通り、宗教団体というものは、上記のような「欲」を持った人達の集まりであり、教団内部では、その「欲」を満たす方向で物事が進む傾向を持つことになる。

 「大天使ミカエルの生まれ変わりが、教団幹部から教祖の子供に変更になった」という話を聞いても、「深い考えがあってのことだろう」等とスルーするような「特殊な常識(=非常識)」が形成されたりするのもその一例である。

 また、例えば、信者達は皆、
「自分の、『この教祖様はホンモノだ』という『確信』を守っていたい」という「欲」を持っているが、その「欲」に関連して次のような方程式が成り立つ。
○自分の「確信」を肯定する情報 = 「快」
○自分の「確信」を否定する情報 = 「不快」
 もし、教祖が予言を当てたりすれば、それは、「自分の『確信』を肯定する情報」なので信者は大喜びするし、一方、教祖が霊視を外したりすれば、信者は不快を感じるのを避ける為にスルーしようとしたり、また、外した理由を必死で考えて問題ないものとして片付けようとしたりするのである。

 そして、教団内では、互いに「不快」を避けようとして、教祖を否定するような情報に対しては、積極的に攻撃して排除しようとするし、一方、互いに「快」を味わおうとして、自分達の「確信」を肯定するような情報を積極的に提供し合おうとする。

 例えば、もし、信者の一人に異分子がいて、「教祖のこの行為って、おかしくないですか?」と疑問を呈しようものなら、よってたかって、攻撃して全否定しようとするし、一方、「信者になってから、こんな特別なことが起きたんです」という情報には、よってたかって耳を傾け、その発言をした信者を称賛しようとする。

 そのようにして、お互いが自分の「確信」を守る為に都合の良い情報を出し合ったり、都合の悪い情報を排除することによって、「ああ、やっぱり、自分の選択は間違ってない」と自己満足し合っているのである。


 さらに、教団内部は、このような同じ「欲」を持った人間の集まりであるから、
「客観的な事実」よりも「主観的願望」が優先・歓迎され、以下のような情報の隠ぺい・歪曲・捏造も平気で行われるようになる。

  ○入信後に起きた良いことだけを報告し、悪いことは報告しない(隠ぺい)
  ○人間関係に少しばかりの改善があっただけなのに、劇的に改善したかの如く報告する(歪曲)
  ○起きてもいない奇跡的なことが起こったと吹聴する(捏造)

 所詮は、制御する気のない、無意識下の「欲」に基づいた行動なのであり、それは、「客観」とは対極にある行為なのである。


 なお、このような状況は、教祖や幹部達がしっかりしていれば制御可能なのだが、そうであっても、教祖の死後に、教団がおかしな方向へとブレて行くのはよくあることである。

 例えば、キリスト教や仏教では、教祖の死後、教祖の神格化が行われたが、それは、「教祖様は人を超越した存在であって欲しい」とか、「他の宗教よりも、自分達の宗教の方が優れていることを示したい」等といった「欲」に基づいて行われた行為である。
 そして、「欲」に基づいて行われた行為であり、「客観的な事実」よりも「主観的願望」が優先・歓迎されるから、上記と同じように、平気で情報の隠ぺい・歪曲・捏造が行われることになるのである。





 以上、「主観的願望」や「欲」を無くせとまでは言わないし、それは、人として必要なものと言える。

 食欲が無ければ人は飢えて死ぬし、愛欲や性欲が無ければ人類は滅ぶ。また、自尊心が無ければ人は向上できない。(もちろん、これらも過剰なものであれば、批判されるべきであるが)

 しかし、客観的な事実の認定など、「客観的な考え方」が求められる場面では、
己の「主観的願望」や「欲」を切り離して客観的に考えなければならない。

 当然、「間違いであって欲しい」等という願望はあっても良いが、その願望によって事実を歪めて捉えてはならないのである。

 そして、それができなければ、インチキ宗教等に騙されたまま、「自分は神の側にいる、正義の側にいる」と勘違いし続け、実際に自分がいるのは、その逆の場所。

 
「欲」や「執着」にまみれた状態で、上辺だけの「愛」や「感謝」、「慈悲」、「慈善」等といった綺麗事を唱え、実行して自己満足しているだけ。結果、自分にとっても社会にとっても、マイナスの人生を歩むことになるのである。

 
こんな「欲」や「執着」にまみれた状態では、神や善、正義もクソも無いと言えよう。



2012.5.22新規

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