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もっともらしいだけの根拠(その1)

 世間ではインチキ宗教やスピリチュアル・精神世界の話に騙される人が後を絶たないが、その理由の一つに、
「もっともらしいだけの根拠」「もっともな根拠」の区別が付かない人が多い
と言うことを挙げることが出来るだろう。

 「もっともらしいだけの根拠」とは、一見、もっともらしく見えるだけで、実際には、根拠として成立していないもの。一方、「もっともな根拠」とは、その反対で、きちんと成立している根拠のことである。

 当然ながら、「もっともらしいだけの根拠」から導き出された結論は、デタラメに過ぎない。

 よって、「もっともらしいだけの根拠」「もっともな根拠」の区別が付かなければ、主張されている結論が正しいか否かの判断もつかず、結果として、デタラメな教祖様のデタラメな結論に振り回されて、デタラメな人生を送ることになってしまうのである。

 ちなみに、「もっともらしいだけの根拠」に基づいたデタラメな結論を主張するのは、宗教やスピ系だけではない。
 主義や思想、また、政治的、歴史的主張などでも、「もっともらしいだけの根拠」は溢れている。ただ、言えるのは、宗教やスピ系の方がその割合が高いと言うだけである。


 「もっともらしいだけの根拠」「もっともな根拠」の判別。

 もし、それが出来なければ、宗教やスピ系に騙される可能性は高いし、仮に宗教等に興味が無いとしても、それ以外のデタラメな主義・思想に騙されて、自分では良い事をしているつもりで、実際は社会に害を与えることにもなりかねない。

 また、その区別が出来ないようであれば、人生の重要な岐路において、自ら
「『もっともらしいだけの根拠』に基づいて、デタラメな結論を出して、デタラメな選択を行う」と言うことにもなるだろう。

 よって、「もっともらしいだけの根拠」「もっともな根拠」の判別ができるようになることは、宗教やスピ系に興味がある無しを問わず、重要なことであると言えよう。

 ただし、「もっともらしいだけの根拠」「もっともな根拠」の区別の仕方を、具体的・体系的に説明することは難しい。

 従って、当記事では、インチキ宗教などでよく見られる「もっともらしいだけの根拠」のパターンを、具体例を示しながら説明して行くこととしたい。

 そのような具体例を知って理解しておくことは、「もっともらしいだけの根拠」「もっともな根拠」を判別する力をつけることに寄与することになるであろう。



1.言葉遊びによる根拠

 宗教やスピ系でたまに見られるのが、単なるダジャレ等の言葉遊びに過ぎないものを根拠としている場合である。まずは、具体例を見てみよう。


<具体例その1> 伊勢白山道氏のケース

《伊勢白山道氏 2009年9月20日ブログ本文より》
 今日からお彼岸の雰囲気に入っています。秋分の日の23日を彼岸の中日として、今日から一週間ほどは、太陽が真東から昇り真西に沈みます。
 この太陽軌道の節目は、太陽の波動を受けて願望が叶い易いとされます。
彼岸(ひがん)とは、日願「日に願う」と言う意味が隠れています。悲願の「ひがん」とも重なります。
ただ、この願望は、個人利を願うのではありません。
 他の為に願うと、自分も生かされるのです。この作用が特に強く働く期間がお彼岸です。先祖霊の安心を願いますと、自分も安心した心境に願わなくても成れる期間です。

(※管理人注)文字に色を付けたのは管理人。以下同様。
 「彼岸」という漢字に別の字をあてはめ、「日願『日に願う』という意味が隠れてい」ると言ったり、同音の「悲願」を持ち出して来て「悲願の『ひがん』とも重な」ると言った上で、彼岸の日は、「他の為に願うと、自分も生かされ」、その「作用が特に強く働く期間がお彼岸」であるとの論理展開。

 こんな論理が成立するのなら、次のような論理も成立するだろう。
 彼岸(ひがん)とは、被癌「被る癌」と言う意味が隠れています。彼岸の日に暴飲暴食などの不摂生をすると癌になり易いので気をつけましょう。
 当然、このような論理展開は単なる言葉遊びに過ぎず、何の根拠にも説明にもならない。もっともらしく説明しているだけである。

 なお、このような、単なる言葉遊びであっても、伊勢白山道氏の場合、
「霊能者」というレッテルがあるので、そのレッテルを信じている者は、その内容に「霊能力という裏付けがあるのだろう」と思い込んで納得してしまいがちである。

 さらに、伊勢白山道氏のケースだと、次のような文章を記載して、そう思い込ませるよう誘導するケースも見受けられる。
《伊勢白山道氏 2009年7月20日ブログ本文より》
 事故現場の1つである、トムラウシ山とは意味深な名前です。 本来の正しい意味とは無関係ですが、トムラウ=弔う、シ=死、の山とも霊的に読めます
 ここでは、「霊的に読めます」と記述して、「霊能力のある自分だから分かるんだ」と暗に示唆している。

 別に霊的に読まなくても、読もうと思えばそう読むことができるし、事実、ネット上では「『トムラウシ山』が『弔う死山』と読める」と主張していた人が少なからずいた。

 所詮、「霊的に読めます」と記述して、霊能力の裏付けがあるかのように装い、
説得力を偽装しているに過ぎないのである。


 また、そもそも論で言えば、前提となっている
「霊能力がある」と言う事実は、単なる自称に過ぎず、何ら立証されていないもの
 そして、実際に検証してみれば、デタラメな霊視結果の数々が露見し、その自称の霊能力がインチキであることが判明するのである。(※伊勢白山道氏の霊能力のインチキっぷりは、「伊勢白山道様にツッコミ!」を参照)

<参考>伊勢白山道氏の他の言葉遊びは、以下の記事を参照
 ○「伊勢白山道様 珠玉のダジャレ集



<具体例その2> 佐野雄二氏のケース

『聖書は日本神話の続きだった!』 (佐野雄二・ハジキン出版・2008.11) P.82
 ではなぜ、神ヤハウェは「みだりに主の名前を唱えるな」と言ったのか。それはヤハウェの名を何度も何度も唱えると、神ヤハウェの正体がバレてしまう恐れがあるからであった。
 どういうことかというと、
ヤハウェの名に日本語の数字を当てはめると、ヤもハも「8」であり、全体として「88ウェ」となる。これは「ハハウエ」とも読め、日本人なら誰でも「母上」を連想する。

  ヤハウェ → 88ウェ → ハハウエ → 母上


 つまり、『旧約』の神の名を何度もみだりに唱えると「ヤハウェ」は「母上」となり、人によっては日本神話の母神イザナミを連想させることになりかねないから、「みだりに主の名を唱えてはならない」と言ったのである。
 佐野雄二氏は該当書籍の中で、日本神話の続きが旧約聖書であり、神ヤハウェは日本神話のイザナミだったと主張しているのであるが、上記内容はその根拠の一つとして提示されているものである。

 「ヤハウェ」の一部を数字に変換した上で「母上」に結びつける荒業。

 こんな言葉遊びに過ぎないものを真剣に主張できるからこそ、「日本神話の続きが旧約聖書だった」とか「『旧約』の神ヤハウェは、日本神話のイザナミだった」というトンデモない結論にたどり着くことができるのである。





 以上、単なる言葉遊びによる根拠や説明を真に受けてはいけない。当然ながら、それは言葉遊びに過ぎないからである。

 そして、言葉遊びを使って自らの主張を説明しようとしている人を見かけたら、「ダメだこりゃ」と考えて、その人物の他の主張にも眉に唾をつけて聞くべきであると言えよう。

 何故なら、言葉遊びが根拠になると考えている人物であるのだから、他の主張も、そのレベルの根拠でもって主張している可能性が大だからである。



 ※(その2)へと続く


2011.12.27新規

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