『エヴァへの道』にツッコミ!(その2) ・・・ 船井幸雄様
※当記事は(その1)からの続き


 (その1)で記載したように、「エゴからエヴァへ」と人々を導こうとする船井様であるが、本書には、船井様の建前や上辺だけの綺麗事ではない、本音・本性の部分が表れていると思われる箇所があるので、それを見て行きたい。


 その本音・本性の部分は、物事を肯定・感謝し、楽しくプラス発想につなげる具体例を記載する箇所で表れる。
<P.90-91>
 最近の私は、これらのことを私なりに理解し、生き方に活かしているのですが、永い間、エゴ中心の生き方をしてきましたので、時々は「おもしろくない」と思ったり、アタマにきたり、心配や咎めの心をおこします。それもよいことです。必然でベストなのです
 
ポイントはこれらをどのように肯定し感謝し、楽しくプラス発想につなげるかです。
 最近の具体例を言いましょう。


(管理人注)文字に色を付けたのは管理人。以下同様。
 そして、具体例として、以下の通り、まず「宇宙学」と言うものが登場する。
<P.91> (※上記からの続き)
 拙著『未来へのヒント』(94年・サンマーク出版刊)で、「宇宙学」のことを紹介しました。「宇宙学」で言っていること、教えていることの大半は真理だと思います。一読しますと、たいていの人は目がさめますし、少し勉強しますとだれでもその内容は納得できます。
 私も「宇宙学」のおかげで、いろいろなことを知り、生き方に自信がつきました。
 ぜひ読者の皆さまも、まだ御存知でないのでしたら、「宇宙学」の勉強をしてくださいとお願いをしておきます。
 ところで、私に「宇宙学」のことを教えてくれた人は石川好男さんと美智子さん夫妻ですが、お二人は、いま京都の鞍馬で自宅を開放、宇宙学を知りたい方に、あらゆる便宜を図っています。石川さん御夫妻のアドレスは、京都市左京区鞍馬本町383です。京福電鉄鞍馬駅より徒歩数分のところですから、宇宙学に興味のある方や勉強したい方は石川さんに手紙でも出して御都合をきいてから訪ねてみてください。
 船井様によると、「宇宙学」「教えていることの大半は真理」らしい。

 根拠の脆弱性や立証できたか否かの区別のできない人物が、よくトンデモ本などで自説を「○○学」と自称したがるものであるが、とりあえず、ここはスルーしておこう。

 そして、この「宇宙学」関連で、ある友人が登場する。
<P.91-92> (※上記からの続き)
 ところで、先日、久しぶりに宇宙学を勉強している友人に会いました。数時間、話しこみました。楽しい一刻でした。
 
その友人は宇宙学の実践者に共通する人がらのよいすばらしい人です。信頼できる人です。最高の善人といってもよい人でもあります。彼は宇宙学にしたがった自分の生き方に信念をもち、実践しています。その「生きざま」にはアタマの下がる人です。
 その後、
彼から長い手紙が来ました。実に心のこもったありがたい手紙です。感動して読みました。
 船井様は、その友人について、「人がらのよいすばらしい人」「信頼できる人」「最高の善人」「その『生きざま』にはアタマの下がる人」とベタ褒めである。

 そして、その友人から「実に心のこもったありがたい手紙」が来たらしく・・・
<P.92> (※上記からの続き)
 ただ、その中に、遠慮しがちの文面ですが、繰り返し「肉食はいけない」と書かれていました私は牛肉が大好きなのです)。また、今年2月に三笠書房より発刊しました私の編著の『「清富」の思想』にふれて、「清富ではなく清貧でなければならないのです。清富の生き方や思想はまちがいです」・・・・・・とくどいくらいに書かれていました
 手紙の中で、船井様が大好きな肉食と、自説の「清富」の考えを否定されたらしい。

 ん? 
くどいくらいに書かれていました」??
 さっきまではベタ褒めだったのに、なんか風向きが変わってきたようだ。
<P.92> (※上記からの続き)
 彼の言いたいことや気持が私にはよく分かります。また手紙自体は私のことを深く考えてくれてのことだと思いますので、苦笑しながら読んでいたのですが、皆さんならいかがでしょうか?
 「皆さんならいかがでしょうか?」と読者に問いかける船井様。

 別に、相手が誤っていると思った場合、それを相手に伝えることは悪いことでもなんでもない。そうしてもらうことによって、自分が誤っていることが判明することもあるし、大いに歓迎すべきことである。

 それを「いかがでしょうか?」と聞かれてもねぇ。。。 別にいいんじゃないの?

 まあ、船井様は「苦笑しながら読んでいた」らしいので、支離滅裂な内容であったのだろうか。
<P.92> (※上記からの続き)
 私は理解し、納得しますと、他人さまの忠告はすなおに受け入れるほうですが、この手紙にはまず反発しました。たぶん、ここしばらくは肉食をやめることはないでしょうし、「清富の思想」がまちがいだなんては決して思わないでしょう。私はこのレベルの人間なのです
 
多分、この手紙によって、彼の意向とは逆効果になったようだと思います。
 さっきは、手紙について、「実に心のこもったありがたい手紙です。感動して読みました」とか言ってたくせに、今度は、「この手紙にはまず反発しました」と真逆のことを言い始めた船井様。

 どちらが、船井様の本心かは言うまでもないだろう。もちろん後者である。

 先に、本心でない褒め言葉を提示しておいて、これから行う、友人対する批判・非難への良心の呵責を緩和しているのである。


 また、友人からの手紙は結局、「逆効果」で反発を招く結果となり、船井様は「肉食」や「清富の思想」への思いを強固なものにしたらしい。

 もし、支離滅裂な内容なら苦笑して終わり。別に反発し、執着を強くする必要はない。

 そして、もし、船井様が本当に「理解し、納得しますと、他人さまの忠告はすなおに受け入れるほう」の人間ならば、反発することもなかったろう。冷静に、相手の意見に理が無いことを伝えて終わりである。

 さらに、相手の間違いを指摘して勝ち誇ったような内容ならともかく、この手紙は「遠慮しがちの文面」だったらしいので、ますます反発する必要はない。

 よって、船井様が反発したのは、むしろ、友人の手紙にそれなりの理があったからではないかと思われる。
 皆さんの周りにもいることだろう、否定されると論理や道理を無視して、感情的になって反発し、益々、否定されていることに執着し出す人が。船井様もそのようなタイプの人間ではないだろうか。

 まあ、どちらにしても、反発したりする必要がないのだから、船井様自身が「私はこのレベルの人間なのです」と言っているように、器の小さな人間である。
<P.93> (※上記からの続き)
 では、どのように対処するかがポイントです。友人と会ったのも、長い手紙をもらったのも必然、必要、ベストであり、なにかの意味があるはずです
 
普通のことでは、決してアタマにこない私が、この手紙をみてアタマにきました。私が「よい」と思っていることを、くどくどと悪いと言われたからです。しかも論理性の全くない言い方です
 ここでは、手紙を見て船井様がアタマに来た理由が書かれている。

 そして、その理由が「私が『よい』と思っていることを、くどくどと悪いと言われたからです。しかも論理性の全くない言い方です」である。

 上述のように、もし、本当に「論理性の全くない言い方」だったのならば、苦笑して終わり。別に、アタマに来る必要などない。

 そして、「私が『よい』と思っていることを、くどくどと悪いと言われたから」
「怒って当然なんだ」と言う論調。そんな程度のことで怒ってないで、冷静に対処すれば良いのに。ほんっと、器が小さい。

 ホントに、船井様は「普通のことでは、決してアタマにこない」人間なんでしょうかねぇ。。。

 しかし、「論理性の全くない言い方」って。ヒドイ言い様やな。


 さて、どのようなことも「必然、必要、ベスト」であると考える船井様は、手紙をもらって自分がアタマに来たことに関し、何らしかの意味を見出そうする。
<P.93> (※上記からの続き)
 まず、私がこの友人ならどのような手紙を書くだろうかを考えました。多分、次のように書くでしょう。
 手紙の書き方の指南を始める船井様。

 そして、船井様の考える、手紙の書き方とは次の通り。
<P.93> (※上記からの続き)
 「船井さん。あなたが大の肉好きであることはよく知っています。ただ肉食は年齢をとりますとカラダによくないと言われていますし、本来マクロに考えますと人間にとりましては正しくない行為じゃないでしょうか。われわれ宇宙学を学んでいる者は、肉食はやめるべきだと信じています。賢明なあなたのことです。ゆっくりお考え下さい」と。
 また「
私たちは、清富”もよいが清貧”のほうが正しいように思うのです。一度、より大きな世の中の仕組みからこの点を深く考えてみてくださいませんか?」と。
 
これなら私はアタマにきませんし、友人の言うことをゆっくり検討しようと思います。この本に、こんなことを書くこともないでしょう。ここでハッと気がつきました。この本にこのことを書くために友人は長い手紙をくれたのだと。
 「遠慮しがちの文面」ではダメで、ここまで丁寧、かつ、気を使った文章にしてもらえないと船井様は、相手の意見を検討する気にはならないらしい。

 あんたは、どこぞの国の専制君主か!?

 そもそも、ある命題が正しいか否かについてと、その主張の表現の仕方とは全く関係ない。

 たとえ、他人から辛辣な侮蔑と嘲笑の表現で、自分の認識の誤りを指摘されたとしても、その指摘が正しいのであれば、自分の誤りを認めなければならない。(※当然、認識が正しいか否かとは別問題として、表現方法が適当か否かの問題はある)


 さらに、船井様は何かに気付いたようで
<P.94> (※上記からの続き)
 これからは大混乱大変化の時代がしばらくつづくと思われます。この非常にむつかしい時代を楽しく生きぬくためには、人間は上手な生き方、正しい生き方、正しい教え方を知ることが大事です。それを検討し知らせるために、友人と会ったようです。長時間話しあい、その結果、彼が手紙をくれたように思います。
 友人と久しぶりに会い、その友人が手紙をくれた理由は、「この非常にむつかしい時代を楽しく生きぬくためには、人間は上手な生き方、正しい生き方、正しい教え方を知ることが大事です。それを検討し知らせるため」だと船井様は解釈したようだ。

 たかが、手紙をもらってアタマに来ただけで、
えらい、大仰な話やな

 ま、解釈なんて、如何様にも好きなようにできるもんだからねぇ。

 そして、
<P.94> (※上記からの続き)
 これからの混乱と変化の世を楽しく正しく生きるためには、自分の意見とちがうこと、自分の生き方とちがう人などを否定したり批判しない生き方を知ることです。一方的に自分の考えを命令調で押しつけるのもよくありません。押しつける代わりにアタマを下げて頼めばよいのです
 船井様は、「これからの混乱と変化の世を楽しく正しく生きるためには、自分の意見とちがうこと、自分の生き方とちがう人などを否定したり批判しない生き方を知ること」という結論を出したようだ。

 他人の意見や生き方を否定したり批判したりしてはいけないらしい。

 
当然、そんなことはない。

 他人の意見が間違っていると思ったら、当然、それは主張して然るべきである。その結果、相手が間違っていることが分かることもあるし、自分の「他人の意見が間違っている」という考えが間違いであることが分かることもある。そうして、自分と相手の考えが切磋琢磨され、人は成長して行くのである。

 また、明らかにインチキ宗教に騙されて人生を歩んでいるような人の生き方も、批判して然るべきであろう。

 なお、正誤がはっきりと出せないような事柄、例えば、各人の好み・嗜好に関する問題ならば、否定・批判することは間違いである。
 例えば、プロ野球が好きで、時間があれば応援に出かけ、プロ野球がその人の人生の一部と化しているようなケースがそれである。
 このようなものは本人の嗜好の問題であり、正しいわけでも間違いでもない。本人が好きでそうしたいのなら、そうさせておけば良い話で、それを否定することはできない。(※ただし、それが限度を超えたもので、「借金をしてまで観戦している」とか、「家族を全く返りみない」などと言うのであれば、また、別問題である)




 以上、最終的によく分からない結論を出して自己満足してしまった船井様であるが、さらに、上記に引用した内容を分析してみよう。

 まず、上記の引用の根底にある船井様の最も強い思いは、「私が『よい』と思っていることを、くどくどと悪いと言われた」という文章も表れている。

 船井様は、自分が「よい」と思っていることを否定され、不快に思ってアタマに来たのである。

 そして、不快に思ったから、
「そんな不快な思いをさせるとは許せん」と考え、「自分の意見とちがうこと、自分の生き方とちがう人などを否定したり批判し」たりしてはいけない、と言う結論に繋がったのだ。


 
人は、自分が考えて出した結論を、自分の人格そのものと思ってしまう傾向があるものである。

 そして、自分が考えて出した結論を否定されることは、自分の人格そのものの否定だと捉える人も少なくない。船井様もそのタイプの人間であると言えよう。

 船井様は、友人からの手紙により、
「自分の人格そのものが侵害されかけた」と感じたので、反射的に反発し、アタマにきたのである。

 そして、自分の人格が侵害されるのを防ごうとして行った行為が、友人の手紙を否定することであり、その具体的手段が「論理性の全くない言い方」と非難することであり、また、「書き方が悪い」と書き方の指導をすることである。

 そもそも、友人との手紙は個人的なやり取りである。それを書籍と言う公の場で非難すること自体が、ルール違反であり、また、相手を全く気遣っていない行為である。

 仮に、「自分の意見とちがうこと、自分の生き方とちがう人などを否定したり批判しない生き方を知ること」という結論が出された経緯を説明する為に、ある程度は書く必要はあったとしても、友人本人が自分だと特定できないほどに、ぼかすこともできたはずである。

 それをしなかったのは、
「自分の人格そのものが侵害されかけた」という恨みを、書籍で批判することによって晴らしたかったからである。


 以上を踏まえて、上述の船井様の文章を超訳してみよう。
 友人から手紙をもらったんだけど、すっげームカついた。肉食がダメだとか清富”が間違いだと書いてやんの。オレ、焼き肉、むっちゃ好きだっつうの。
 しかも、論理性が全くない文章で、くどくどと。もう苦笑するしかなかったね。

 オレが「よい」と思ってることを否定すんなよ。否定されたから、むしろ、肉食や清富”への思いは強くなっちゃったよ。残念、逆効果でした。

 そもそも、書き方が悪いんだよ。もし、考えを改めて欲しいのなら、もっと、へり下ってお願いしやがれ。それなら、検討してやってもいいぞ。

 ああ、ほんっと、ムカついた。でも、これにも何か意味があるはずだよな。ムカついたことも「必然、必要、ベスト」で、意味のないことなんて無いはずだもんな。

 そうだ、「他人を否定したり批判したりしちゃいけない」ってことを気付かせる為に、この出来事があったんだ。
 ああ、一つ勉強になった。やっぱり、「必然、必要、ベスト」だった。手紙をくれた友人に感謝。
 結局、船井様の文面から読み取れるのはこういうことであり、つまりは、ただの感情論。よくもまあ、人様を「論理性の全くない言い方」などと否定できたものである。

 そして、このようなタイプの人間に限って、
「自分のことを理性的・客観的に考えることができる人間だ」と勘違いしているもので、船井様もご多分に漏れない。

 本書の他の箇所では、次のようなことを言っていたりする。
<P.139>
 おかげで、理性的で可能性のないことは決して考えない私にも、可能性の枠が拡がり将来に大きな夢が出てきました。
 船井様、理性的な人間が、上述のように、ちょっと自分の意見を否定されたくらいで、アタマにきて反発し、公の場にさらして非難したりしませんよ!

 ちなみに、このように、「自分のことを理性的・客観的に考えることができる人間だ」と勘違いできるのは、自分の都合の悪いことは見ないからである。

 誰でも、自分の欲と関係のない事柄については、理性的に考えることができるものである。しかし、自分の欲、特に、その欲が重要なものであればあるほど、それが絡んでくる事柄については理性的に考えることが出来なくなる。

 上記のように、
「自分が『よい』と思っていることを否定されたくない」と言う欲が絡んで来た場合が良い例であり、そのようなケースでは全く理性的、客観的になれない人も多い。

 そして、そんなことをしているにも関わらず、自分のそんな部分は見ずに、欲とは関係のない事柄、もしくは、重要でない欲と関連した事柄で、理性的に考えることができた時のことのみを見て、「自分のことを理性的・客観的に考えることができる人間だ」と自己満足するのである。

 また、そのように自分の都合の良い部分だけを見て、都合の悪い部分を見ないのは、
「自分は立派な人間だと思いたい」「自分はちゃんとした人間だと思いたい」と言う欲でもって自分自身や物事を歪めて見ているからである。
※参考記事
「目の中の梁 〜『欲』によって自らの目を曇らせる人達〜」
「『目の中に梁が入っている人』の判別方法 〜怒り〜」


 『エヴァへの道』という題名の書籍で、人々にエヴァ的な生き方を勧める一方で、平気で、上述のような自分のエゴ゙丸出しの記載をする船井様。

 船井様、自分自身のことがよく見えてないんじゃないですか?





 上述の通り、自分が主張していることと真逆の行為を行い、自分自身のことが見えていないのではないかと思われる船井様であるが、(その3)では、さらに、それを裏付ける、船井様の矛盾する言動について見て行きたい。



2011.11.8 新規

自分がアタマにきたことを「必然、必要、ベスト」だなんて考えて肯定してないので、「何故、アタマに来たのか」「そもそも、アタマにくる必要があるのか」等を一度、よく考えてみた方がいいゾ。