私の邪念対処法(その2) |
※当記事は(その1)からの続き。
私の邪念対処法の説明をする前に、まず、その前提となる考え方から述べていきたい。
なお、必要最低限の情報を含め、かなり広範囲に関連する情報を記載するつもりであるので、対処法の記述はかなり後になってしまうことをご留意いただきたい。
また、以降で説明するものは、自分の経験及び、他の情報をもとに考察して、「こう考えれば、上手く説明できるのではないか」というもの提示するものであり、ただの仮説である。
そして、部分的に考察としてヌルい部分もあるので、今後も考察を積み重ねて適宜、修正をしていくつもりである。
それでは、まずは「霊」というものについてである。
2.霊とは
私は、霊とは意識そのものではないかと考えている。死んだら肉体がなくなって意識のみになり、それが霊とか魂と言われるものである。
そして、あの世とは、意識のみの世界であり、つまり、想像のみの世界となる。
また、「霊=意識」の特徴として以下のようなものがあると考えている。
(1).場所・位置は関係ない
(2).時間は関係ない
(3).一部、及び全部の共有可能
(4).複製・合成・創造可能
(5).動植物のみならず、全ての物に霊(=意識)は宿っている
(6).究極的には全ての霊(=意識)はつながっている。
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順に説明して行こう。
(1).場所・位置は関係ない
我々は想像しようと思えば、自分があらゆる場所にいることを想像できる。例えば、行ったことのない海外の場所はもちろん、人類が到達していない宇宙にさえいることをも想像することができる。もちろん、移動に時間がかかることもない。
同じように、霊(=意識)も基本的にはどこにでも存在できる。
その「どこにでも」とは、この世のあらゆる場所はもちろん、想像上の場所をも含むことになる。ただし、知らない場所、想像しない場所には行くことができない(※知らない場所であっても、その場所を想像できたら行くことが可能)。
また、厳密に言えば、「霊(=意識)が現在、○○という場所にいる」という認識は誤りである。
同様に、我々が持っている「意識は我々の肉体の中にある」という認識も、肉体の五感を通して受け取った情報によってそう錯覚しているに過ぎない。
それは例えば、オンラインゲームにおける3Dのバーチャルな世界で、「自分は今、○○村で村人と話している」、「自分は今、△△平原でモンスターと闘っている」と言うのと同じであり、実際に自分の意識がそんな場所に存在していないのと同様である。
では、霊(=意識)がどのように存在しているかというと、「物理法則のようなもの」と考えれば分かりやすいだろう。
例えば、「E=mc2」というエネルギーと質量の等価性を表す法則は、地球上のどこででも、宇宙のどこででもその法則は成り立つ。
この法則について、我々は現象という結果から知ることができるのみであり、その法則自体を見ることはできないが確実にこの世に存在している。
いったい、この法則はこの世のどこに存在しているのだろうか。
この世全体をカバーするような大きさで存在しているのだろうか、それとも、素粒子レベル、もしくは、それより小さいレベルで無限の数の同じ法則が存在し、それがこの世全体を満たしているのだろうか。
両者とも否であろう。そもそも、「この世のどこそこに存在している」というような物理的な認識が誤りであって、実際は、この世の全領域において影響を与える形で存在しているだけなのである。
霊(=意識)も同じようなものであり、この世の全領域に対して干渉しうる形で存在している。
そして、「現在、私は○○という場所にいる」という認識は、意識の焦点がその場所に集中しているだけの話であり、それは、「ある場所でE=mc2という法則が確認された」と言うのと同様で、その場所にのみその法則が存在しているわけではないのと同じである。
また、上記仮説を前提とすれば、「幽体離脱」という現象は、「実際には身体から魂が抜け出しているわけではなく、意識の焦点が身体以外の場所へ移っているだけ」ということになる。
同様に、「千里眼」、「透視」という現象も、実際は視ようとする場所に意識の焦点を合せているだけである。
そして、「幽体離脱」と「千里眼」・「透視」の違いは以下の通りであり、基本的に同じ能力である。
「幽体離脱」 ・・・ 意識の焦点の全てが、自分の身体以外に移った場合。
「千里眼」・「透視」 ・・・ 意識の焦点を自分の身体に保ったまま、さらに、別の焦点を自分の身体以外に合せる場合で、意識の焦点が二つ以上のケース。
なお、「千里眼」と「透視」の違いは、視ようとする対象が遠いか近いかの違いである。
<参考>
○特定の場所に意識を合せ、さらに、その場所を映像化して認識するのは容易でなく、「自分では幽体離脱や透視をしているつもりで、実際は自分が想像したその場所を見ているだけ」というケースが多い。
○他の霊によってそのような映像を見せられているケースもあり、その場合は、意識の焦点は自分の身体の中にのみある。
○「幽体」とは、自分の認識が作り上げた自分自身の姿であり、五感を通して得られた情報による錯覚がもたらした虚像である。
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(2).時間は関係ない
場所と同様、時間というものも、霊(=意識)は関係ない。
我々が過去、未来、いつ如何なる時と場所でも想像できるように、基本的には時間を無視して存在し、かつ、参照・干渉可能である。
ただし、過去・未来に対する参照・干渉については、何らかの制約・制限がかけられていると思われる。
(3).一部、及び全部の共有可能
複数の霊(=意識)の間で意識の一部、及び、全部の共有が可能である。
そして、生きている人間の間で起こる以下のような現象は、意識の一部が共有された結果である。
○虫の知らせ
例えば、「何か胸騒ぎを感じたら、その頃に親しい人が亡くなっていた」というケース。
これは、死んだ人が死ぬ直前に親しい人のことを思い出し、その思いがその親しい人に伝わる場合で、実際には意識の内の相手への思いの部分が共有された結果である。
○殺気を感じる
これは「虫の知らせ」と同様で、相手を殺そうとする思いが、相手と共有された結果である。
○集団幻覚
これは、一人が作り出した幻を、集団で共有した場合に生じる現象である。
○テレパシー
テレパシーは上記3つの延長線上にある能力で、テレパシーの発信側が漠然とした思いや気持ち等ではなく、明確な言葉を伝えようとした場合に生じうる現象である。
ただし、受信側が上手く脳の機能を使用して言語化できなければ、単に思いのみの受信、もしくは、「何かを伝えようとしている」程度にしか認識できない結果となる。
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以上は、生きている人間の間で意識の一部共有が発生した例であるが、「生きている人間と霊」の場合だと、次のような現象が生じうることになる。
○霊が視える
例えば、部屋にいる霊の姿が視えた場合、その霊が持っている意識の内、「この部屋にいる」という意識、及び、「自分の姿」の認識を共有したことになる。
また、「この部屋にいる」という意識のみを共有し、「自分の姿」の意識を共有しなかった場合は、霊視した側は部屋にいる存在について自身がイメージ化したものを視ることになる。その場合、複数の霊視者がいると、それぞれ異なるイメージのものを認識することになる。
○霊の声が聞こえる
これは上述のテレパシーと同様である。
○憑依
生きている人間と霊とで意識の共有が生じ、かつ、より結びつきが強い場合は、憑依と言われる状態になる。
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なお、例えば、「部屋に何かいる!」と思った場合でも、それが自分が作り出した妄想か、実際に意識の共有が生じているのかの区別はつきにくいものである。
何故なら、これまで述べて来たように「霊=意識」で、かつ、妄想も意識が作り出したものであって、本質的には同じものだからである。
よって、自分の妄想を霊能力の結果だと勘違いしたインチキ霊能者が、世に蔓延することとなっている。
また、霊(=意識)の全部共有は、上述のような一部共有が全部に及んだ場合である。
(4).複製・合成・創造可能
@.複製
プラナリアという生物は、真っ二つに切断するとそれぞれが再生して一つの個体となる。このようなケースでは霊(=意識)の複製が起こっているのではないかと思われる。
このプラナリアのケースは意識全体の複製だが、例えば、強い憎しみ、嫉妬等の思いが本人から分離し、いわゆる「生き霊」となって対象に害を及ぼすような場合は意識の一部複製となる。意識全体の内、憎しみ等の思いのみが複製されるからである。
A.合成
合成については、「そのようなことも可能ではないかと考えている」程度である。
例えば、憑依されて、憑依した側とされた側が不可分なほど強く結びついた状態がそれに近いと思われる。
B.創造
ある人が妄想で思いついた神が実際にいると思い込み、その神を祀る神社を創建して一定の信仰を集めたりすれば、その神(霊(=意識))が新たに創造されることになる。
ちなみに、上記、複製・合成は以下の通り、神道の神の概念でもある。
○複製(全体の複製)
神道では、分霊という形で祭神を無限に複製可能である(※参考:Wikipedia(分霊))。
例えば、稲荷神社の場合、全ての分祀社を数えると32,000社にのぼり、個人や企業等に祀られているものや山野や路地の小祠まで入れるとさらに膨大な数になる(※参考:Wikipedia(稲荷神))。膨大な回数の複製がなされた結果であると言えよう。
○複製(一部複製)
神道には、和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)という概念がある。
和魂は雨や日光の恵みなど神の優しく平和的な側面であり、荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂であるとされる(※参考:Wikipedia(和魂・荒魂))。
そして、例えば、伊勢神宮の別宮・荒祭宮では天照大神の荒魂が祀られているが、これは、天照大神の荒魂の部分のみを複製して祀っていることになる。
○合成
神道では、複数の神を合祀することによって一つの神としても扱われる場合がある。
例えば、伏見稲荷大社の祭神は、宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神の5柱だが、これらを総称して稲荷大神と呼ばれる。
このようなケースでは、5柱の神が合成されて稲荷大神となり、必要に応じて、例えば、「宇迦之御魂大神の部分が前面に出て活動する」という形になっているのではないかと思われる。
なお、神道の概念上、一度、合祀したものを再び分離することは不可能である。できるとすれば、一部複製のみである。
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(5).動植物のみならず、全ての物に霊(=意識)は宿っている
(6).究極的には全ての霊(=意識)はつながっている
私は、神(ここでは究極の根源神)とこの世の全てとの関係を、「漫画家とその漫画家が描いた漫画のようなもの」ではないかと考えている。
根源神 = 漫画家
この世の全て = 漫画家が描いた漫画
簡単に言えば、この世とは、根源神が作り出した妄想であり、バーチャルな世界である。
そして、漫画家が、登場人物やそれが活動する世界を想像して漫画を創り上げるように、根源神もこの世を創り上げた。
また、漫画上の登場人物や背景の石ころ一つにいたるまで、漫画家が「そのようにあれ」と思って存在するように、この世の全て、石ころ一つにいたるまで、神の「あれ」という思いから生じたものである。
その「『あれ』という思い」という、言わば「存在を保つ力」がこの世の全てのもの宿っており、それが霊(=意識)の根源である。
そして、その意味において、動植物のみならず、全ての物に霊(=意識)は宿っていると言える。
また、漫画に描かれた全てが漫画家から離れて行動も存在も出来ないように、この世の全ても根源神から離れては行動も存在もできない。(※描かれた漫画が単行本として存在しているのは、過去が存在しているだけで、ここでの「存在できない」とは、「現在、そして、未来において」という意味である)
よって、この世の全ては根源神につながっており、究極的には全ての霊(=意識)はつながっているとも言える。
なお、根源神とこの世の全ては、直接つながっているわけではない。間にいくつもの創造的・管理的役割をする存在がいる。
例えば、根源神の下には、動物担当、植物担当、無生物担当、この世のシステム担当等がおり、さらに、動物担当では種類別、地域別等に分かれている(あくまで「例えば」の話)。
このように大きな区分から小さな区分へと幾層にも細分化されて創造・管理を担当し、その存在たちがいるのは(その3)で述べるあの世の構造の涅槃・実在界の領域となる。
また、この仮説を前提とすれば、「全ての人間は神の操り人形に過ぎない」ということになろうが、多少異なる。
漫画家の「自分のキャラが勝手に動き出す」という旨の発言をよく耳にするが、そのようなものだと思えば良い。
例えば、次のような感じである。
○最初、「このような展開で、こういう結末に」と考えて、創り始める。
○創り進めて行く内に、キャラが思いかけず予定していない行動をとり、「この展開の方が面白いな」と思い、その行動を認める。
○当初、予定していなかった展開になる。
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このように、基本的には「全ての人間は神の操り人形に過ぎない」のではあるが、人間側に全く自由意思がないわけでもないのである。
なお、人間側からは根源神の考えは認識できないので、結果として、自分が自由意思で行動しているとしか認識できない。
<参考> 「人間に宿った意識」と「肉体を持たない霊(=意識)」の違い
「人間に宿った意識」と「肉体を持たない霊(=意識)」とでは、後者が肉体を持っていない分、制限が少なく、かつ、システム的な制約も少なくなっているであろう。
また、現時点で、「肉体を持たない霊(=意識)」側のみに出来ることとして次のようなことを考えている。
○人間の考えていることを知ることが可能
意識のみであるので、その分、人間の意識(特に、表層部分)が明確に分かることになると思われる。
○より広い範囲での認識が可能
これも肉体を持たないがゆえに、より広い範囲での認識が可能となるであろう。広い範囲とは空間的、時間的、因果的なものなどである。
○人間を操ることが可能
例えば、憑依された場合。本人の意識に代わって、相手の肉体を操ることが可能。
○ある程度、因果を操ることが可能
例1) 結婚をしていない子孫の相手を探して、縁を結ぶ
例2) 自分が支援している宗教団体・教祖を批判する人を事故にあわせる。
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○ある程度、物理的な干渉が可能
例1) カメラ等の機器の調子をおかしくさせる。例えば、シャッターが押せない、電源を押しても作動しない。
例2) 何らかの意思を伝える為に皿などを割ったり、壊したりする。
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なお、物理的な干渉については、実際に物理的に干渉しているのではなく、上述した「存在を保つ力」に干渉することによって物理的に干渉したかのように見える現象を引き起こしているのではないかと思われる。
また、「人間に宿った意識」であっても、修行等によって肉体的な囚われやシステム的な制約を無くせば、上記のようなことも可能になってくると思われる。
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続いて(その3)では、「あの世」について述べて行きたい。
2015.02.03新規
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