感謝と怨嗟 〜感謝のもつ危険性〜 (その3)

 ※当記事は以下の記事からの続き。

    ○「感謝と怨嗟 〜感謝のもつ危険性〜 (その1)
    ○「感謝と怨嗟 〜感謝のもつ危険性〜 (その2)



7.「感謝」と「怨嗟」の効能を知らずに利用する教祖たち

 (その2)で述べた通り、「感謝」と「怨嗟」をうまく利用することは、信者たちを洗脳、コントロールする上で非常に有効であると言えよう。

 ただし、これを利用している本人たち自身が、それを理解して意識的に使用しているとは限らない。むしろ、分かっていない場合の方が多いと言えよう。

 その点について、まずは、「感謝」から見ていきたい。

 おそらくは、「感謝」を推奨する教祖たちは、純粋に「『感謝』には良い点だけしかなく、何も問題のないもの」と考えている。

 そして、そう信じた上で、信者たちに「『感謝』の気持ちを持ちなさい」と説く。

 さて、このように説けば、信者たちの「感謝の気持ち」が最も向きやすいのは、どこだろうか。
 この教えを聞いた信者たちが、共通して感謝すべき対象。そう、それは、その教えを説いている教祖自身である。

 教祖の教えに「なるほど!」と思った信者は、「素晴らしい教えを説いて下さって、ありがとうございます」と、教祖に感謝するようになるのである。


 教祖になるような人物は、自信過剰で、うぬぼれが大きい人も少なくない(それは、劣等感の裏返しであったりするのだが)。
 そして、信者たちに「感謝」を説き、その「感謝」が自分に向くようになると、たまらなく心地良いのである。

 自分の考えが、素晴らしいものとして受け入れられ、しかも、「感謝」される。
 人間ができているフリをしているだけの教祖は有頂天になり、さらに、「感謝」を推進して、信者たちからの「感謝」を求めるようになる。
 そして、一方で、自分の考えを受け入れないことや反論は、排除するようになる。そのようなものは、「感謝」と正反対で、心地良くないからである。

 このようにして、教祖は、信者たちに「感謝」を勧めることのうま味を知って行き、その過程で、「感謝」が信者たちのコントロールに非常に有効であることを、経験的・本能的に知ることになるのである。


 次に、「怨嗟」である。

 (その2)で述べた通り、通常、「怨嗟」は、団体の初期の段階ではなく、団体の成長に陰りが見え始めて、「前に進んでいる感」を味わえなくなってきた時に、積極的に使用されることになる。

 そして、その時には、教祖に次の二律背反が訪れているのである。
○自分は偉大であり、自分の考えは正しく素晴らしいはずだ
○しかし、偉大なはずの自分が、思い通り理想を実現できない、神の国を作り上げることができない。
 この二律背反を解決し、かつ、「自分は偉大であり、自分の考えは正しく素晴らしい」と思い続けて行くことが出来る手段が、「外に敵を作ること」なのである。
 例えば、次のように、全ての原因をその敵のせいにして自らを正当化し、自分自身と信者たちの目を誤魔化す。

 「自分は偉大な人間であって正しい。しかし、邪魔する敵がいるから、理想を実現できないんだ。全て、その敵が悪いんだ」

 このようにして、教祖は「怨嗟」を利用するようになり、信者たちの不満は外へと向けられるようになるのである。


 なお、具体例をあげると、外に様々な敵を設定し、行くところまで行ってしまったのが、オウム真理教である。

 また、2003年頃の多摩川のタマちゃん騒ぎの際に話題になった、白装束集団の千乃正法会(※パナウェーブ研究所と言った方が分かり易いか)と言う例もある。

 その代表の千乃裕子氏は、相手にもされていない共産主義を敵として見出し、「共産主義者が『スカラー電磁波』で日本を襲う」とか、「共産ゲリラから『しめつけ痴漢ビーム』による、失禁攻撃を受けている」などと主張していた。(※参考:Wikipedia「千乃裕子」Wikipedia「千乃正法会」Wikipedia「パナウェーブ研究所」

 完全に、妄想と現実の区別がついていない状態なのだが、それでも、ついていく信者たちがいると言うのが、マインド・コントロールの恐ろしさと言うところか。


 以上、「感謝」と「怨嗟」は往々にして、非意図的に信者たちのコントロールに使用されるものなのである。

 宗教に限らず、内に向けては「感謝」、外に向けては「怨嗟」させようと仕向けている、もしくは、その一方を行っている団体は、意図的、もしくは、非意図的に、団体員をマインド・コントロールの状態に置こうとしている団体である可能性が高いと言えるだろう。



8.まとめ

 2500年前にインドの地で釈迦が説いたように、何事も極端なことと言うものは、何らかの問題をはらんでいるものなのである。「感謝」も然り。

 「感謝」が無ければ、それは「怨嗟の極致」となり、何事にも満足せずに、否定しているだけの状態になる。一方、「怨嗟」が無ければ、それは「感謝の極致」となって、何事にも満足してしまって、全てを受け入れる状態になってしまう。
 そして、そのどちらでも、人としての進歩・改善が無くなってしまう。

 これまでは、個人レベルで「感謝」と「怨嗟」について考えてきたが、社会レベルでも見てみよう。

 もし、社会に「感謝」しかなく、「怨嗟」が無ければどうなってしまうか。
 例えば、設計ミスで車に欠陥があり、それが原因で多くの人が死んだとする。

 遺族たちは皆それを受け入れ、無理やり「感謝」をするだろう。そして、誰も、その車の製造会社に「感謝」はしても、文句を言うことはない。何故なら、「怨嗟」という概念が無いからである。
 一方、製造会社の方も、欠陥車を作って良かったと思うことだろう。それは、全ての遺族たちから感謝されているからであり、また、そもそも、「怨嗟」と言う概念が無いのだから、欠陥車で死人を出したことを、恨み、嘆くことなどない。むしろ、非意図的に欠陥車を作ってしまったことに、「感謝」をするのである。

 結果、その車は欠陥を持ったまま使用され続け、人は死に続ける。

 「怨嗟」が全く無ければ、社会には進歩・改善が無くなってしまうのである。


 一方、社会に「怨嗟」しかなく、「感謝」が無ければどうなってしまうか。

 全ての人が、何に対しても満足することなく、恨みごとや文句ばかりを言って、決して肯定することはない状態。
 そのような社会は破綻していると言えるだろう。


 以上、「感謝」も必要だし、「怨嗟」も必要。どちらかのみで良いということはありえない。
 「感謝」すべき時には「感謝」をし、「怨嗟」すべき時には「怨嗟」すればいい。

 ただし、どちらかに偏った状態には問題があるのであり、要は、バランスの話なのである。


 なお、現在の社会は、「感謝」と「怨嗟」で言えば、「怨嗟」寄りでバランスの悪い状態であると思われる。
 何事にも不満ばかりを言い、ケチをつけてばかりで満足することがない。そして、自分では何もしないで文句をつけるだけ。そういう人が多いのように思われる。いわゆる「モンスター・ペアレント」、「モンスター・ペイシェント」などが良い例であろう。

 もっと、「感謝」側へ戻した方が、バランスが良いと言える。


 また、一応、断っておくが、私は、宗教が「感謝」を勧めるのをやめろと言っているわけではない。宗教は、一般よりも、「感謝」寄りに位置しているのが理想であろう。

 ただし、あまりにも、「感謝、感謝」と前面に押し出して、過剰に推進している宗教には気をつけた方がいい。特に、その「感謝」が、結果として教祖へと向けられている場合は非常に危険である。
 おそらく、そのような団体の信者は、今まで述べてきたような、「感謝の極致」、もしくは、それ近い状態で、盲信・狂信状態になっていることであろう。

 そのような教祖や団体からは、早々に離れるべきである。

      




2011.2.17新規

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