もっともらしいだけの根拠(その9)

 ※当記事は、記事(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)(その6)(その7)(その8)からの続き



9.誤った二分法(1)

 「誤った二分法」とは、「誤ったジレンマ」とも言い、実際には他にも選択肢があるのに、二つの選択肢だけしか考慮しない状況を指す。非論理的誤謬の一種である。

 ちなみに、選択肢が2つよりも多い場合で、全ての選択肢を考慮しない場合は、「誤った選択の誤謬」「網羅的仮説の誤謬」と呼ぶ。 (※参考Wikipedia「誤った二分法」)

 より簡単に言えば、以下の通りとなる。
『「神々の指紋」の超真相』 (Hユウム他/データハウス/1996) P.46
二つの答えの内どちらかなのかと問うことによって、あるいは二つの可能性だけを挙げてその一方を否定することによって、第三第四の可能性から相手の目をそらしてしまうのである。

  この「誤った二分法」は、インチキ宗教やオカルト関連でも良く使われる手法であるが、立ち止まって良く考えないと、まんまと騙されてしまうことになる。

 定義だけでは、分かりにくいと思うので具体例を見て行きたい。



(1).「エホバの証人」のケース

 「エホバの証人」は有名なカルトなので、ご存知の方が大半だと思うが、以下は『救いの正体。』(別冊宝島編集部(編))での説明である。
『救いの正体。』 (別冊宝島編集部(編)/宝島社/2008) P.243
 エホバの証人とは宗教法人「ものみの塔聖書冊子協会」の信者のことである。この団体の教えによれば、現在地上ではエホバ神とサタンがハルマゲドン(世界最終戦争)をくり広げている。その結果、近く全人類は滅びるが、エホバの証人だけは生き残り、その後に出現する地上の楽園で永遠の生命を手にすることができる。
 そのために、信者たちはひとりでも多くの人をエホバの証人にしようと、小冊子『もののみ塔』を手に伝道訪問に歩く。冒頭の光景がその一シーンである。 
 よく、女性の二人連れや子供連れで家に勧誘しに来る団体であり、また、当団体では輸血を禁止しているので、「子供の輸血を拒否して死亡させた」などと話題になることも多い。

 この「エホバの証人」であるが、「子どもを懲らしめることを差し控えてはならない。ムチで打っても、彼は死ぬことはない」という聖書の言葉を根拠に、子供をムチ打つことを奨励しているようである。

 ちなみに、セラピストの服部雄一氏の調査によると、39人の元信者のうち、90%が子どもを叩くように教えられ、80%が体罰を目撃し、85%が叩くように周囲から圧力を受けていたそうである。(※参考:『救いの正体。』 P.247,P.244)

 通常、
「言うことを聞かない子どもは、積極的に叩いて言うことを聞かせるべきだ」という考えに賛同する親はあまりいないのではないかとかと思われる。

 しかし、そのような考えに賛同させ、子どもにムチ打つように仕向ける為に使用される手法が「誤った二分法」なのである。

 「エホバの証人」がどのように、ムチ打つように誘導するのか、『救いの正体。』にて服部雄一氏が解説されているので見てみよう。
『救いの正体。』 (別冊宝島編集部(編)/宝島社/2008) P.255
 カルトの児童虐待は二元論の罠です。カルトは物事をすべて極端な善悪に分けます。子どもをサタンに引き渡すか、子どもを堕落と死から救うか、などは二元論の罠です。カルトは親に、子どもを救うために子どもを叩くかどうかの選択を迫るわけです。しかし、二つの選択があるようでも、一つしか選べない仕組みになっている。二元論の罠にはまると、子どもを救うには虐待するしか方法がない。これを心理学用語で「偽りのジレンマ」といいます。二つの選択を与えるが、一つの道は塞がれており、残りの道しか選べないのです。
 偽りのジレンマは政治でよく使われます。今ここで彼らを攻撃しなければわが国は絶滅させられる。座して死を待つか、こちらから攻撃するか。選択肢があるようだが、一つの選択は絶滅だから、攻撃するしかない。詭弁の一種です。カルトの児童虐待でも同じ二元論の詭弁が使われています。

※文字に色を付けたのは管理人
 こちらの解説では、主として「二元論の罠」という言葉が使われているが、「誤った二分法」と同じことである。

 そして、親である信者を子どもを虐待するよう誘導する為に、次の二択が与えられることになる。

   @.子どもをサタンに引き渡すか(子どもを叩かない)
   A.子どもを堕落と死から救うか(子どもを叩く)

 本当にこの二択しかないのなら、誰でもAを選ぶことになり、実質的には選択肢は一つしかない。

 しかし、実際には、次の第三、第四の選択肢が隠されている。(※「サタンに引き渡すか否か」と「叩くか否か」の二つの条件で考えた場合)

   B.子どもをサタンに引き渡さない(子どもを叩かない)
   C.子どもをサタンに引き渡す(子どもを叩く)

 このように、「子どもを叩かずともサタンに引き渡すことにならない」という考えもあるし、むしろ、「子どもを叩くことがサタンに引き渡すことになる」と考えることも出来る。

 だからこその詭弁なのであり、本当は
四分法なのに、都合の悪い選択肢を隠して分法にしてしまっているところが誤った二分法」なのである。

 さらに言えば、迷った末に子どもを叩くことを選んだ親は、「子どもを叩かなければ、サタンに引き渡すことになる」という教団の教えを真実として受け入れ、結果、
自分の魂を教団に売り渡したと言うこともできるし、一方、子どもしてみれば、「ムチ打つ」という過剰な体罰を本来、守ってくれるべき親から受けることによって心に傷を負うことになるだろう。(※実際には、ムチが使用されるよりは、素手やモノサシ、ベルトが使われたりするらしい)

 むしろ、隠されたB、Cの選択肢の方がより重要で、真実に近いと言える。

 ちなみに、カルトが親に子どもに体罰を与えるよう仕向ける理由について、服部雄一氏は次の3つをあげている。
『救いの正体。』 (別冊宝島編集部(編)/宝島社/2008) P.253 ※抜粋
@.恐怖心で子どもを従順にすること
A.親子関係を壊して孤立させること
B.親の忠義心のテスト

 このように、「誤った二分法」を使用して、子どもをムチ打つよう誘導されるわけである。

 ただし、信者以外の人が上記@とAの選択を与えられたら、通常、「何で、叩かなければ、サタンに引き渡すことになるんだよ!」と疑問を持ち、「誤った二分法」という言葉を知らなくても、この選択肢のおかしさに気づくであろう。

 しかし、信者の場合、その教団の教義を信じて信者になったのだから、教団からこの選択肢しかないと言われれば、それを信じて、結局、子どもを叩くことを選んでしまうのである。

 さらに、この「誤った二分法」という手法の卑怯さは、
相手に選択の自由があるかのように思い込ませ、「自分で選んだ」という認識をもたせることである。

 先述の通り、与えられた2つの選択肢は、実質的には1つしか選べないのだが、その選択肢を与えられた者は、自分で考えた上で、「子どもをサタンに引き渡すわけにはいかない。堕落と死から救う為に叩こう!」と結論を出すことになる。

 そして、そのように考えることによって、
「自分は教団に言われるがまま従っているわけでない。ちゃんと自分で考え、選択した上で行動しているんだ。自主性を失っているわけではない」と認識することになる。

 本当のところは、教団側に上手に誘導されているだけなのだが、自分で選んだと思わせることによって、その結果として生じる、
行動に対する責任と、その選択に対する執着を相手に植え付けることになる。

 もし、教団から強制されて子どもを虐待しているのなら、「教団に強制されてやったんです」と、その責任を教団に押しつけることが可能である。しかし、自分で、そうすべきだと考えた結果としての虐待ならば、そのような言い訳は出来ない。全て自分の責任である。(※教団に騙されたままで信者でいる限りは)

 そして、子どもへの虐待が誤りであるなら、それは、その選択した自分の責任になってしまうから、その責任を避ける為に、「子どもを堕落と死から救う為に、子どもを叩くべきだ」という結論に固執することになるのである。

 もし、正しいと思っていた子どもへの虐待が、実は何の意味もないどころか、子どもを苦しめていただけだと分かったら、それは親にとって大きな精神的苦痛をもたらすであろう。

 だからこそ、その結論に執着し、さらに、その結論に反する言動を激しく排除しようとするようになる。大きな精神的苦痛を味わう状況を無意識に避けたいと思うからである。

 そして、新人の信者が、「子どもを叩かなければ、サタンに引き渡すことになるって、おかしいよね」なんて結論を出すのはおろか、「子どもを叩くのはさすがにちょっと・・・」と躊躇していたりしても、それは許せない行為として映ることになる。

 そのような行為は、自分が出した、「子どもを堕落と死から救う為に、子どもを叩くべきだ」という結論を脅かす行為であり、そもそも脅かされようとすること自体が許せないのである。

 結果、「誤った二分法」によって誘導され、同じ結論を出した信者たちは寄ってたかって、新人の信者たちにも同じ結論を出すよう圧迫するようになる。

 それが、先述した、「85%が叩くように周囲から圧力を受けていた」という調査結果なのである。




 以上、このように「誤った二分法」を使用すれば、信者個人に教団にとって都合の良い結論を出させることが可能であるばかりか、「自分で選択した結果だ」という認識を与えることによってその結論への執着を生じさせ、他の信者たちにも同じ結論を出すように強要するよう仕向けることが出来るのである。

 結果、信者全体を同じ結論へと誘導することが容易になると言えよう。


 当然、この「誤った二分法」は宗教団体等では多用されることになり、例えば、他にも次のような二択が与えられることになる。
当教団の信者しか、この世の終末に生き残ることが出来ない。

@.自分が生き残ることが出来ればいいので、信者でない人は放っておく。
A.信者でない人を当教団に勧誘して、救ってあげる。

 → 布教活動をするよう誘導
聖書に「富める者が神の国に入るのはラクダが針の穴を通るよりも難しい 」という言葉がある。

@.今が良ければいいので、自分の財産は私利私欲の為に使用し、この世の終末には地獄に堕ちる。
A.財産を教団に寄付することによって、天の御国の倉庫に富を積み、この世の終末には天国に行く。

 → 教団に財産を寄付するよう誘導
当教団の教えを否定したり、信者であることを辞めさせようとする人は悪魔に操られている。

@.悪魔の言うことに耳を貸し、虚言に惑わされて信仰を捨てる危険性を侵す。(信仰を捨てると地獄行き)
A.悪魔の言うことには耳を貸さず、信仰を守り通す。(天国行き)

 → 教団の外からの批判には耳を貸さないよう誘導
(注)上記3例は、管理人が「このような誘導がなされているのだろう」と推察したもので、実際に、カルトで使用されていることを確認したわけではない。
 さて、当記事で説明に使用した「誤った二分法」の例は、先にも触れた通り、通常、信者でなければ引っかからないものであるが、(その10)では、信者でなくても引っかかり易い、より高度な例を見てみたい。




2013.6.4新規

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