『青年地球誕生』にツッコミ!(その6) ・・・ 幣立神宮さま
 ※当記事は(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)からの続き



 当記事では、本書の執筆者の一人である春木秀映様がどのような経緯を経て、これまで見て来たようなトンデモ伝承・伝説を主張するに至ったかを見てみたい。


 まず、以下は、春木秀映様が幣立神宮の神職に就くまでの経緯をまとめたものである。
○明治36年7月20日、熊本県阿蘇郡蘇陽町大野(現:熊本県上益城郡山都町)に生まれる。
未来の提督を夢みて、海軍兵学校を受験しようとするが、心身を痛め断念。
○2年間病を癒した後、軍隊に入隊。
○2年後、台湾で警察に就職。
○2年後、文官高等試験の受験の為に日本に戻るが弟が病気になって延期になり、熊本県警に就職。
○再度、文官高等試験の受験準備を始め、
中央政界に打って出るプランを立てるが、社家を継ぐ予定であった弟が死亡。
○昭和7年12月、宮司であった父親が死亡。
○昭和8年9月から、幣立神宮に奉仕を開始。
○病床にあった母親死亡。
○昭和9年1月、実家の幣立宮祀職を正式に継承。
○神界より「神業皆伝証書」を授与される。

<参考>表紙掲載のプロフィール、及び、P.134,216-219。
 未来の提督を夢見たり、中央政界に打って出ようとしたりして、春木秀映様は、立身出世を夢見る人物であったと言えよう。

 さて、幣立神宮の祀職を継ぐきかっけとなったのは、本来、継ぐ予定であった弟の死であるようだが、その時の経緯を詳しく見てみよう。
<P.219>
 運の向いている時はこのようにトントン拍子にうなぎ上りで、その頃、高文の受験準備も軌道に乗って居り、これが登竜門となって、次は中央政界に打って出るという、胸ふくらむプランが渦巻いていた時、これはまたなんという運命の戯れか、社家の後継ぎ息子である弟が、病魔に屈し命を絶ったのであった。
 
私の父は、つとに神社界の大物と目された前途有為の長男を失い、いままた柱とたのむ末子を失った失意の為か、初冬の朝明け遂に昇天したのであった。時に昭和7年、奇しくも12月8日のことであった。(注、十年後のこの日、大東亜戦が始まった)
 かくて、
病床にあった母の要請もだし難く、また、老母の看取りこそ「父母ニ孝」の至善の道と肝に決め、当時は有るか無きかのご存在であった幣立神社の祀職を継承した。ところが、なんとこれが昭和維新の中核となる、従って本編の命題ともなった、『青年地球誕生』の、その活舞台の幕明けになろうとは、神ならぬ身の知る由もなかったのである。

※管理人注:文字に色を付けたのは管理人(以下同様)。
 「高文」・・・文官高等試験のこと。
 
 まず、社家を継ぐ予定だった弟が亡くなり、続いて、昭和7年に当時、幣立神社の宮司だった父も死亡。
 そして、病床の母の要請で、幣立神社の祀職を継ぐことを決めたことが記載されている。

 これらの記載から分かることは、春木秀映様が幣立神社の祀職を継ぐことを決めたのは、先代の宮司であった父が亡くなった後だと言うことである。

 つまり、仮に、これまで見て来た伝承・伝説等が本当に当社にあったとしても、
それを継承する作業など、少なくとも、まともにはなされていないことが分かる。

 ちなみに、病床の母がある程度知っていて、伝えた可能性もあるが、母からの言い置きとして本書に記載されているのは、以下のもののみである。
<P.220>
 私がこの井沢女史を尋ねたのは、病床の母から次のような言い置きがあったからである。その言い置きというのは、大黒柱の弟が病床に在った時、この井沢女史が日の宮参りの後、社家を訪れて曰く
 「このお宮には
『日の玉・水の玉』がありますでしょう。これは大事な神器ですから大切にして頂かないと障りがあります」と水の玉の形を、まるで見たことがあるかの如く、また、ヒサゴ型の玉中に一点の銀色の水気があることまで透視されたのである。これにはさすがの母も驚きのあまり、
 「初参りのあなたにどうしてそれが分かりますか」と尋ねると、
 「神様にお参りしていると、実物そのものと寸分も変わらぬものが目に浮かびます」と答えたという。
 このようなことから、母の昇天後に日の宮を預かる身となった私は、一度井沢女史に会っておくことは、神明奉仕の上に何かプラスするところがあろうと考えたからである。
 母親が、霊能者から、日の玉と水の玉について、「これは大事な神器ですから大切にして頂かないと障りがあります」と伝えられたことが言い置きされたようである。

 ここで分かることは、母親が、「日の玉・水の玉」について、
1万5千年前に宇宙神を宿して地球に降りて来たとか、イスラエルの民が幣立神宮に奉納したなどといった話を知らなかったと言うことである。

 知っていれば、わざわざ、大切にしろと言われるまでもないし、このような話をあえて「言い置き」する必要もない。ただ単に、「すごい霊能者が来たことあるのよ」とか「不思議な話があったのよ」などといった話で終わりである。

 母親は「日の玉・水の玉」について特別な伝承など何も知らないからこそ、霊能者に「大事な神器」と言われて、わざわざ「言い置き」する必要があると考えたのである。

 さて、
春木秀映様は、いったいどこで、「日の玉・水の玉」についての伝承を知ったのであろうか。


 さらに、春木秀映様が宮司になった時点で、そもそも、そんな伝承・伝説などがあることを知らなかったことを示唆する文章があるので見てみよう。
<P.134>
 私が幣立神宮日の宮に奉仕するようになったのは昭和8年9月からで、翌年の1月、正式の辞令を頂いた。これは父祖伝承の社職として、売れ残りみたいな私が無理に継がせられた、と云った方が当っていた。

 〜(中略)〜

 ところが、
その売れ残りが暴れん坊で、全国八社の一つに選ばれた神社が、ただの民社であるはずがない、と考えて、調べてみるとちゃんとした辞令があった。つまり、幣立神宮は古今無双の「神宮」であることが分かってきたのである。
 要するに
熊本県が、幣立神社と命名して郷社の取扱いをしたのは、熊本県の前身である白川県から発令された日の宮の末社『大野神社』に対してのものであって、本尊の、日の宮の幣立神宮には、古往今来、社格というものはないことが分かってきたのである。それは、伊勢神宮や宮中三殿と同様に、社格を超越した、「尊宮」であることが分明したのである。これは熊本県の重大なる過失である。
 上記には、「その売れ残りが暴れん坊で、全国八社の一つに選ばれた神社が、ただの民社であるはずがない、と考えて」とある。(※なんか文章がおかしいが、「その売れ残りが暴れん坊」とは春木秀映様のこと)

 しかし、もし、これまで見て来たようなトンデモ伝承・伝説等を知っていれば、
「ただの民社でないことは明白」なので、「ただの民社であるはずがない」などと考えることなど無いはずである。

 また、「幣立神宮は古今無双の『神宮』であることが分かってきた」という文章も、幣立神宮に関する特別な伝承・伝説などを知らなかったこと意味している。

 つまり、春木秀映様は、家業を継いで宮司になった段階で、幣立神宮に伝わる伝承・伝説など教えられていなかったし、また、幣立神宮がそれまで本当の素性を隠して存続して来たなど知らなかったのである。(あくまで、「それらが本当だとしたら」の話だが)


 さらに、上記内容には、おかしな点があるのでツッコんでおこう。

 まず、春木秀映様は辞令を調べ、郷社の取扱としたのは幣立神宮に対してではなく、その末社の「大野神社」に対してのものであったことが分かったとしている。ここまではいい。(※それが正しいかは、辞令の内容を確認してみないと判断できないが)

 その後、「幣立神宮には、古往今来、社格というものはないことが分かって」「伊勢神宮や宮中三殿と同様に、社格を超越した、『尊宮』であることが分明した」としている。

 まず、「古往今来、社格というものはない」ということは、
珍しいことでも何でもない

 例えば、古代社格制度においては、国家の保護を受けた神社を官社と呼ぶが、それ以外は、社格がないことになる。

 また、中世社格制度では、一宮、二宮、三宮、総社、国司奉幣社などがあるが、これも、国家関連の重要な神社につけられたもので、全ての神社に社格があったわけではない。

 そして、明治の近世社格制度では、官幣大社から村社まで定められたが、
社格のない無格社として59997社があった。

  ※参考:Wikipedia「社格


 つまり、
むしろ、社格が無い神社の方がはるかに多いのであり、「幣立神宮には、古往今来、社格というものはないことが分かってきた」などと、別に特別に言い立てる程のことではないのである。

 次に、春木秀映様は、そこから、「伊勢神宮や宮中三殿と同様に、社格を超越した、『尊宮』であることが分明した」などと飛躍した結論を述べている。

 確かに、伊勢神宮は別格として社格を与えられなかったが、もし、社格が無い事を根拠に、
「伊勢神宮と同格」と言えるのなら、そこらじゅう、伊勢神宮と同格の神社だらけになってしまう。


 おそらく、このような、
「社格が無いから、『社格を超越した、「尊宮」である』という論理で、本来は「幣立神社であるにも関わらず、「幣立神宮などと自称し出したのだろう。

 そして、およそ、神社の宮司とは思えないような、このような発想が出来るのも、ロクに神職を引き継げなかったが故であると思われる。

 ちなみに、本書には、「当時日の宮は幣立神社として阿蘇神社の末社とみられていた」(P.159)という記載がある。

 結局、これが、幣立神宮の本来の姿であろう。

 言ってみれば、「阿蘇神社の末社」が幣立神社の格を表しており、当社が「社格を超越した、『尊宮』」などでないことは明白である。(※阿蘇神社の方は、肥後国一の宮で旧官幣大社)




 以上、先代の宮司であった父や母から、幣立神宮に関する特別な伝承・伝説などを受け継ぐことなく、宮司になった春木秀映様。

 そして、本来ならストッパーになったであろう、これら両親も既に他界しており、もはや幣立神宮は春木秀映様の独壇場となったと言える。

 さらに、上述のような「ただの民社であるはずがない」という願望が投影した思い込みに立身出世欲が加わって、これまで見て来たような、『竹内文書』と類似のトンデモ話を創作して行くことになったのだと思われる。

 なお、本書では時折、神示なるものが降った旨の話が登場するが、そのような神示も創作の一助となったであろう。


 さて、続いて(その7)では、他の
まともな書籍等に記載された幣立神宮に関する情報をもとに、創作によって飾り立てられる前の幣立神宮本来の姿を可能な限り明らかにして行きたい。



2013.02.05 新規

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伝説・伝承を創作するなら、それを伝えられる話も創作しとけば良かったナ。