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偽モノの見分け方(その5)
※当記事は(その1)(その2)(その3)(その4)からの続き


 当記事では、(その3)、(その4)にて説明した「偽モノを見分ける方法」の精度を上げる為にすべきことを説明して行きたい。


7.自分自身が本モノになること

 当然ながら、
他人が本モノであるか否かを判断できる為には、自分自身が本モノでなければならない

 それは、偽モノのエルメスのバックしか持っていない人が、他人からエルメスっぽいバックの鑑定を依頼されても、本モノか否かを判別できないのと同じことである。

 なお、ここで言う、「本モノになること」とは、別に聖人君子になれと言っているわけではない。
上辺だけのご立派な言葉で自分と他人を騙すようなことをせず、嘘偽りのない自分であれと言っているのである。

 より具体的には、次のような事柄を常日頃から守るように心掛けるべきである。
(1).自分の為にしていることなのに、「他人の為だ」、「世の為だ」などと偽るな
(2).口先だけの、行動を伴わない美辞麗句で、自分と他人を騙すな
(3).自分が出来もしない建前で、他人を批判して自己満足するな
 順に説明して行こう。

(1).自分の為にしていることなのに、「他人の為だ」、「社会の為だ」などと偽るな

 この表題のように、自分を偽っている人など、世を少し見渡せばいくらでもいることだろう。
○「国民の為、国の為」と言いながら、権力欲・出世欲バリバリの政治家。

○「こんなにやかましく勉強しろと言うのは、あなたの為なのよ」と子供には言いながら、本心では、子供を有名私立中学に進学させて、親戚や近所の人に自慢したいが為に、勉強しろとやかましく言っている母親。

○「俺だって怒りたくなんかないんだよ」と相手の為に怒っていることをアピールしながら、同じ内容の説教を延々繰り返し、本当は、ストレス発散に利用し、また、説教するという支配的立ち位置が心地よくて仕方ない上司。
 人は、「自分の欲の為」とすることに後ろめたさを感じるものである。

 しかし、後ろめたさを感じて、ためらっているだけでは自分の欲を追求できない。そこで取られる欺瞞的方法が、

   
自分の為の行為を正当化する別の理由を探して来て、自分本来の欲を隠す

というものである。

 例えば、上記母親の例で言えば、
「私がご近所に自慢したいから、あんた、必死になって勉強して有名私立中学に合格しなさい」なんてストレートなことは、なかなか言えるものではない。

 そこで、自分の本来の欲を覆い隠して偽装する為に、別の理由として探し出して来るものが以下のようなものである。
「今は学歴社会だから、良い学校に入学した方がこの子の為」
「私立中学の方が、公立より先生の質が良い」
「中高一貫校に入学した方が、短い間に連続して受験がなく、ノンビリと充実した学校生活を味わえる」
 このような建前を見つけて来て主張すれば、「自分の為」が「子供の為」に早変わり。大見え切って、子供に勉強を強いることができ、自分の欲の実現に向かってまい進できることになるのである(※もちろん、子供に勉強を強いる親の全てがこうだと言っているワケではない)。


 このように、自分の為にしていることなのに、「子供の為だ」、「社会の為だ」などという
建前で自分の欲を覆い隠して、他人どころか自分自身をも騙さないことである。

 そのような行為は、
偽モノが取る欺瞞的な行為である。


 ちなみに、このような欺瞞的行為は、通常、無意識に行われている。

 そして、「子供の為だ」、「社会の為だ」と口で、そして、頭の中で連呼することによって、自分本来の欲を意識の深層へと追いやり、また、そのような言葉を連呼する自分を見て、
「ああ、自分はこんなに子供のことを、社会のことを思っている立派な人間だ」と思って自己満足しているのである

 なお、以上のような自己欺瞞の思考・行動は、当然ながら、偽モノ教祖たちと同様のものである。



(2).口先だけの、行動を伴わない美辞麗句で、自分と他人を騙すな

 これまで何度も述べて来たことだが、人は、自分の口から出る美辞麗句に自分自身が酔い、しかも、その言葉によって
「こんな立派なことを言っている自分は、立派な人間だ」と自己満足して終わってしまうので、行動が伴わなくなるものである。

 よって、例えば、
「感謝が大切です」「日々感謝をしましょう」などと他人に言い出す前に、まず、「感謝」について考え、自分がその概念に従ってどこまで実行するのか、また、出来るのかをよく考えてみることである。

 あなたが実行する「感謝」とは、日々、当たり前のことを当たり前だと考えずに感謝するだけの感謝なのか、はたまた、あらゆることに感謝を向ける感謝なのか。

 もし、「あらゆることに感謝を向ける感謝」であるのなら、あなたは、自分の娘をレイプされて殺されても、その相手に感謝で接する覚悟はあるのか。

 さすがに、そこまでは無理だと考え、
「自分は、自分を批判などで攻撃してくる相手、敵対してくるような相手に対しても感謝で接するぐらいのことはしたい。きっと、そこには、自分の成長につながる何がしかの利点を見い出せるはずだからだ」
ぐらいには考えるのか。

 仮に、そう考えて実行したとすれば、あなたは遅かれ早かれ、それを実行することの難しさに気づくだろう。

 もし、自分が素晴らしい文章が出来たと思ってアップしたブログ記事が、他人からボロカスに批判されたとする。通常、反射的にムッとし、感謝とは正反対の怒りが込み上げて来ることだろう。

 ここで、
「ああ、やっぱり、このような状況で『感謝』を実行することは難しい。自分には無理だ」と考えて、上記の考えを撤回するのも良いだろうし、一方、初志貫徹で怒りを抑え、感謝で対応するよう努めるようにするのも良いだろう。

 そして、もし、撤回した場合は、自分が実行している「感謝」は、自分に対して敵対的行動(明確に「敵」と言えるものだけでなく、主観的にそう見えるモノも含む)を取ってくるモノや、自分の自尊心を侵害しようとするモノ(同じく主観的にそう見えるモノも含む)に対しては適用しないものであることを認識すべきだろう。

 一方、感謝で対応するよう努めた場合は、自分が実行している「感謝」は、批判されればすぐムッとしてしまう程度の「感謝」であり、まだまだ発展途上の「感謝」であることを認識すべきだろう。

 偽らずに、自分に出来ること、出来ないことを認識することが大切である

 このように「感謝」について真剣に考え、その概念で言動を首尾一貫させようとすれば、その言葉の重みや実行することの難しさに気づき、安易に、「感謝、感謝」と連呼出来なくなるのである。

 逆に、そのようなことをしようと考えもしなかった人ほど、実は、その人の中で「感謝」という言葉は軽いから、「感謝、感謝」と連呼できることになり、また、自分が立派な人だと思いたいというから、「感謝」を不必要に連呼して、他人に推奨したりし出したりするのである。


 
自分の口から美辞麗句を発することで自分自身が酔い、その概念で行動できてもいないのに、また、行動する気すらないのに、出来ているような気になってはいけない。

 自分が出来もしないことを、さも出来ているかの如く振る舞い、人々に推奨したり、強いたりするのは、やはり、偽モノが取る欺瞞的な行為に過ぎない。


 参考までに、分かり易い、自己欺瞞の為の美辞麗句を紹介しておこう。

 それは、「人の命は地球より重い」という言葉である。

 もし、本当にそう考えている人がいるとしたら、その人は、どのような行動をとるだろうか? 考えてみよう。

 例えば、その人が、
「ある人が臓器移植しなければ死んでしまうが、お金が全くない」という話を聞けば、どうするだろうか?

 きっと、赤の他人であっても、今ある貯金の全てを寄付し、それでも足りないとなれば、借金をしたり、募金活動を始めたりすることだろう。その人にとって、赤の他人の命であっても、それは「地球より重い」のである。それぐらいのことはするだろう。

 また、
「ある国で、ワクチンを買う金がない為に、多くの子供が毎年死んでいる」と聞けばどうだろうか。やはり、居ても立ってもいられなくなって、先と同様の行動をはるかに熱心に行うことだろう。「地球より重い」と認識しているものが多数なのだから当然であろう。

 さらに、
「毎年、交通事故で1万人死んでいる」という話を聞いたらどうだろうか。きっと、車の廃止運動を実施し出すことだろう。「地球より重いもの」が毎年1万個も失われているのである。それに比べれば、人々が享受している車の利便性など、はるかに軽いものである。


 以上、お分かりの通り、「人の命は地球より重い」という概念で行動するなど実質不可能であり、そんなことを言える人は、その言葉の重みなど全く認識していないし、また、その概念で行動する気などこれっぽっちもないから、平気でそんなことを言えるのである。

 私なら、「人の命は地球より重い」などと言っている人を見たら、
「素晴らしい人だ」なんて思わない。むしろ、「うすっぺらい人だなぁ」と思うだろう。

 実行できもしない、かつ、実行する気もない美辞麗句を平気で口にし、自己陶酔しているだけの人だと思うからだ。



(3).自分が出来もしない建前で、他人を批判して自己満足するな

 まずは、分かり易い例を挙げよう。
尊い命が失われているんだぞ。それを自分達の保身の為に隠蔽するなんてどういうことだ!
お前達こそが死ねばいいのだ!
 最近、いじめ問題関連で、似たような主張を目にすることも多いだろう。

 ここでは、「尊い命」という言葉が登場しているが、この発言をしている人は、間違いなく、命を尊いものだとは思っていない。
 何故なら、最後に、
「お前達こそが死ねばいいのだ」という命を軽んじている言葉があるからだ。もし、本当に命を尊いものだと思っているのなら、そんな言葉は出て来ないであろう。

 この発言者が「尊い命」という言葉を使ったのは、
そのような概念が相手を批判するのに都合が良かったからに過ぎない。

 このように、自分が本当は大切だとも思っていない概念などを持ち出して他人を批判するのは、やはり、自分と他人を偽る欺瞞的行為である。

 人は、大切そうな概念や、一般に従うべきだと考えられている概念などを、他人を批判するのに都合が良ければ持ち出して来て、批判の正当性・攻撃力を強めようとする。たとえ、そのような概念を自分自身が実行してもおらず、本心では、大切だとも思っていないとしてもである。

 例えば、次のような言葉もそうであろう。
○他人のことを思いやる気持ちはないのか!
○無責任だ!
○隠蔽体質だ!
○偏向した情報を流すな!
○前に言ってたことと矛盾している! 等々・・・・・・
※もちろん、このような言葉を発している人の全てが、自分自身も実行できていないと言うつもりはない。
 そして、人は、このような言葉で他人を批判することによって、自分はそれが出来ている気になってしまうものである。

 例えば、他人を「無責任だ!責任を取るべきだ!」と批判することによって、自分が責任を取るべき時には取る、責任感の強い人間だと勘違いするのである。

 これは、(2)で述べた、美辞麗句を連呼することによって、「こんな立派なことを言っている自分は、立派な人間だ」と自己満足するのと全く同じことである。


 よって、嘘偽りのない自分になる為に、
自分に出来ない事柄では他人を批判しないことである。

 本当は、命を尊いと思ってもいないのに(もしくは、「命の尊さ」というものを軽く思っている)、命の尊さを盾に取って他人を批判すべきではない。

 自分が同じような状況に置かれた時には、責任を取らないのに、同様の状況で同じように責任を取らない他人を「無責任だ」などと批判すべきではない。


 そのような欺瞞的な行為をしない為に、
他人に批判の言葉を発する際には、まず、その言葉を自分に向けてみるべきである。

 そして、
「その批判の言葉を向けられても自分は問題ない」と確認できて初めて、その批判を他人を向け、一方、自分はその批判の言葉を発するに値しないと思うのなら、批判をやめるか、また、「○○した方が良かったと思います」などという具合にトーンを1段も2段も下げた言葉を選択すべきである。

 自分が出来もしないことで他人を責めるのは卑怯であり、自分自身を見ずに他人のアラだけを探して自己満足するのは、偽モノが行う行為である。


 また、人は、他人に厳しく自分に甘くなりがちである。

 ある時は、他人に「責任をとれ!」と批判するが、別の時に、自分が同じような状況に置かれた時は、「これぐらいで責任を取る必要はない」となる。

 他人と自分とで同じ基準を適用しなければ、それは首尾一貫しない行為であり、本モノの態度ではない。

 また、本当は、自分の欲の為に基準を下げただけなのに、「責任を取る必要があるとは思わない」などと開き直って、さも、一般論として、責任を取らなくても良い状況だと判断したかのような態度を取るのは、やはり、自分を偽った偽モノの態度であると言えよう。


 あなたが、ある人から「人の悪口を言うな」と怒られた後、その人が他人の悪口を言っているのを見かけたら、腹が立つだろう。

 同様の偽りの行為を、あなた自身も行って偽モノの人間にはなるべきではない。

 そして、そのような偽りの人間にならない為に、他人に批判の言葉を向ける前に、まず、その言葉を自分に向けて、自分自身をチェックするのである。





 以上、本モノの自分(=嘘偽りのない自分)になる為に、注意すべき点を何点か述べてきた。


 別に、四六時中、自分の思考と言動をチェックする必要はない。まずは、上述の3点に従って、次のように思った時に、チェックするよう習慣づければ良いと思う。

  ○「自分以外の○○の為にやっている」と思った時
  ○他人に何かをすべきだと主張しようする時
  ○他人を批判しようとする時

 このような時にチェックを続けて行くことによって、きっとあなたは、本モノへと近付いて行けるだろう。

 なお、そのチェックには、(その3)、(その4)で述べた「偽モノを見分ける方法」が役立つ。その方法は、自分自身の偽モノっぷりを見抜くのにも使えるからである。

 特に、「誰の為に、何の目的での行動かを検証する」は重要で有用である。

 自分が腹が立ったので批判するのなら、それは自分の為の行為である。もし、本当に相手の為、世の為に批判したいと言うのであれば、本当にそれらの為になるためには、どのような発言や行動をするのが最善なのかをよくよく考えるべきであろう。


 もちろん、いきなり、完璧に、嘘偽りのない首尾一貫した態度で行動するのは不可能であり、それは、一生かけても無理ではないかと思う。

 しかし、日々自分の思考や言動をチェックし、時に出来ていないことを自分で気づき、また、時に他人に気づかせてもらい、適宜、反省・修正して行くことで、自分自身を練り上げて行くことは可能である。

 そして、それは、誠実に、謙虚に、嘘偽りなくチェックして行くことが大前提であるが、そうして行くことこそが、自分が本モノへと近付いていける道ではないかと思う。


 また、それを続けて行けば、当記事でもさんざん批判して来た、
「目が欲で曇った状態」も取り除かれて行くことだろう。

 当記事で言う、「本モノの自分(=嘘偽りのない自分)とは、目が欲で曇っていない自分のこと」でもあるからである。


 そして、そうやって、自分自身が本モノへと近付いて行き、目の曇りを取り除いて行けば、きっと、世に蔓延する多くの偽モノたちをすぐに見破れるようになって行けることであろう


 なお、このようなチェックをより高度に機能させる為には、「正しく考えることのできる自分」にならなければならない。

  ○○だから、自分の主張は正しい
  ○○だから、相手の主張は間違っている

と自分では考えていても、これらの「○○だから」の部分が、根拠として成立しえないものであれば、結論は誤ったものになってしまう。
 
 そして、実際に、詭弁や屁理屈に過ぎないものを根拠として、自信満々に他人を批判している姿もよく見かけるものである。

 このような「正しく考えることのできる自分」になる為の方法については当記事では説明しないが、当HPの「お薦め書籍」のページに、「考える力を身に付ける為に」と銘打って参考書籍をあげているので、そちらを参考にしていただきたい。




2012.9.18新規

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