主観と客観(その4)
※当記事は(その1)(その2)(その3)からの続き。

5.客観が要求される事柄において主観で考える例

 これまで述べ来た通り、主観客観をきちんと区別し、客観で考えるべき事項については客観的に考えなければならない。

 しかし、ほとんどの人は主観客観の区別が曖昧で、漠然と
「自分は客観的に考えることができる」と思い込んでいるものである。

 当記事では、誰にでもある、客観が要求される事柄において主観で考えてしまう例を見てみたい。
 Aさんは、毎朝、駅まで15分の距離を歩いているが、今日は寝坊してしまい、自転車で駅へと向かった。

 駅には少し離れた場所に有料の駐輪場があるが、そこまで行く時間がおしい。駅の入口付近をを見ると駐輪禁止ではあるが、多くの自転車が止まっていた。

 「まあ、ここでいいだろう」と思い、自転車を止めようとすると、突然、声を掛けれらた。

 「あなた、ここは駐輪禁止ですよ!」

 振り返ると、サラリーマン風のおじさんが立っていた。たまたま通りかかっただけのようだ。

 「す、すいません・・・」

 Aさんはそう言うと、仕方なく駐輪場へと向かった。

 しかし、ムシャクシャして納得できない。

 (他にもいっぱい駐輪しているのに、なんで、オレだけ)
 (毎日違法駐輪しているヤツがいるんだから、まず、そっちを注意しろよ)
 (駐輪したって、人は通れるから問題ないだろうに)
 (あんな鬼のような形相で注意する必要ないじゃないか)
 (あそこに止めれば間に合ったのに、おかげで遅刻確定だ、どうしてくれるんだ)
 (いったい、あのオッサンは何の権限があって注意して来たんだ?)

 
(ああ、ホント、最悪だ。今日はなんて、ついてないんだろう!)
 まず、「駐輪禁止の場所に駐輪して良いか」について、主観で考えていいか悪いかを考えれば、当然、主観で考えてはいけない事項である。
 
「ルール、法律は守るべき、従うべき」という社会的に合意の下で決められた正解があるからである。

 そして、客観的に考えるなら、
「駐輪禁止の場所に駐輪して良いか」の結論はNOになる。

 だから、Aさんは注意されると渋々従った。

 しかし、ムシャクシャしてしまう。それは怒られたことにより
自尊心を傷つけられたからである

 そして、Aさんは
自尊心を回復しようと、自分の行為を正当化して肯定し、かつ、注意したおじさんを否定する為に考える。それが最後の青字の部分である。

 青字部分は、それぞれを個別に捉えるなら、別に間違ってはいない。しかし、その根底にあるのは
「自分の自尊心を回復したい」という欲であり、それは主観である。

 そして、主観で考えているから、自分の、ここでは
「自分の行為を正当化して肯定し、かつ、注意したおじさんを否定したい」に沿った考えしか出て来ない。例えば次のような考えだ。
○駐輪禁止の場所に駐輪しようとしたのは自分だから、悪いのは自分だ。
○寝坊して、遅刻しそうだからといって、違法駐輪が正当化されるわけではない。
○そもそも、寝坊してしまった自分が悪いのだ。
 このように、主観で考えていると、自分の欲にとって都合の良い方へとしか考えないので、偏った考え方になることになる。

 ただ、Aさんが、注意された時にすぐに謝って駐車場へ向かったのは、
「客観的に考えて自分の方が悪い」と内心では分かってはいたからだ。

 その点では、Aさんは、ある程度は客観的に考えることが出来ることのできる人間だと言える。
 しかし、一方で、駐輪場へ向かう途中に自分の主観で考え、かつ、そのことを明確に認識できていない点では客観性に欠けていると言える。

 誰にでもこのような経験はあることだろう。そして、自分の頭の中だけであるなら、自尊心を回復する為に時に主観で考えるのも許されるべきであろう。

 ただ、
「本当は客観的に考えるべき事柄であるが、あえて主観で考えているんだ」という認識がないと、それは主観客観の区別が付いていないことになり、正しい答えを導き出せない。

 そして、ヘタすれば、客観が要求される事柄で自分の主観を押し通そうと、他人に、そして、社会に行動を開始しかねないことになる。(※そもそも、主観客観の区別がついていない場合は、
「自分が主観を押し通そうとしているだけ」と言う認識すら持てないのがだが)。

 世間では
「ルール違反を注意されて逆ギレ」という光景もよく見られるものであるが、その、逆ギレする人は、客観が要求される場で主観を押し通そうとしているのである。
○注意されて、腹が立つ
○自分のしようとしたことを邪魔されたので許せない
 そのような自分の主観が全てで、客観的に考えることが出来ず、主観客観の区別がついていないのである。

 しかし、そのような、客観的に考えることが出来ない人間でさえも、
「自分は客観的に考えることのできる人間だ」と思い込んでいるものである。

 その理由は、自分の、つまり、主観で物事を考える為に、次のような傾向を持っているからである。
@.自分に都合の良い答えを出して自己満足する。

  ・・・
「自分が客観的に考えられる人間だと思いたい」というがあり、その主観に従って結論を出す。

A.自分に都合の良いものしか見ない。

 ・・・ 自分のと関係ない事柄については、主観で考えようがなく、結果として誰でも客観的に考えることになる。そして、そのような事例のみを見て、
「ああ、やっぱり自分は客観的に考えられる人間だ」と思い込む。

B.物事を自分に都合良く歪めて見る。

 ・・・ 主観で考えた結果であるにも係らず、
「客観的に考えた結果だ」と事実を捻じ曲げ、自分を欺く。


 私は、このような傾向を持った考え方を「偽客観(にせきゃっかんと呼んでいるが、詳細は(その5)にて述べる。



2016.12.06新規

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