もっともらしいだけの根拠(その18)
※当記事は、(その15)(その16)(その17)からの続き


 当記事では(その17)に引き続き、ある言語で記載された歌等を他の言語で解釈し直してしまった事例を見て行きたい。


18.言葉遊びによる根拠U(4)

<具体例その3>言葉遊びをしていることに気付けなかった論説


(3).「人麻呂の暗号」 (藤村由加)

 藤村由加は、4人の女性執筆者集団のペンネームで、佐藤まなつ、北村まりえ、榊原由布、高野加津子の4人の名前から一文字ずつ取ったものである。この4人は、ヒッポファミリークラブという、複数の言語を同時に自然習得することを目的とした会員制クラブに所属していた。

 この藤村由加は、1989年に発売した書籍『人麻呂の暗号』(新潮社)の中で、『万葉集』の柿本人麻呂の歌が朝鮮語で読み解けると主張した。

 (その17)で見た「日本語=レプチャ語起源説」では、『万葉集』をレプチャ語で解読できるとしていたが、今度は朝鮮語である。

 ただし、『人麻呂の暗号』の方では、柿本人麻呂が、表向きは日本語で読めるように歌を作成した上で、
裏に暗号として、朝鮮語での意味を付加したとしている点で特色がある。(ちなみに、朝鮮語以外にも、歌を表記するのに使用された漢字の意味や成り立ちにさかのぼり、そこにも暗号を隠していたともしており、朝鮮語よりも漢字での暗号解釈の方が多い)


 具体的に、その書籍で、万葉集の歌詞をどのように韓国語で解釈しているのかを見てみよう。まずは、通常の解釈である。
「くしろ着く手節(たふし)の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ」(巻一-四一)


<意味>
答志(たふし)の崎で、今日は大宮人たちは玉藻を刈っているのでしょう。

持統天皇が伊勢に行幸された時、都に残った柿本人麻呂が宮人たちのことを想像して詠んだ歌。

「釧(くしろ)着(つ)く」は「答志(たふし)」の枕詞で、「釧(くしろ)」は手首につける腕輪のこと。当時、手首のことを「手節(てふし)」と言っていたようで、そこから「答志(たふし)」を導くイメージができたようである。


<参考>「たのしい万葉集」 → 「たのしい万葉集(0041)」 

 そして、この歌を朝鮮語で解釈すると、次のようになる。
『人麻呂の暗号』 (藤村由加/新潮社/1989) P.130
 ピニヨ コヂヤ スヂヨルハナン コデエソ オナルドカモ
 テグギヌン オンニヨ ペラム

(かんざしを挿して操を守るタフシの崎にきょうもまた大宮人たちは美しい妻たちを狩っているのだろうか)

 
玉藻の韓国語音オクヂヨを、音韻変化可能な範囲内で、玉女(オンニヨ)ということばを見つけて入れ換えてみた。玉女とは、「美しい婦人」「身も心も玉のような清らかな婦人」のことである。この歌が古代朝鮮語で金氏の低い声で重々しく読み上げられた時、私たちは何か本物に触れたような実感が湧いてきて、思わずため息をもらしていた。


(※管理人注)文字に色をつけたのは管理人(以下同様)
原文にはハングルの記載もあるが省略した。
 柿本人麻呂が伊勢に御幸している持統天皇ら宮人のことを想像して唄った歌が、大宮人(※男たち)が美しい婦人たちを狩っているという、犯罪臭のする歌に早変わりである。

 ちなみに、『人麻呂の暗号』における朝鮮語への解釈の手法は、『万葉集』の歌はもともと、漢字の音を借用した万葉仮名と言われる漢字のみの記載となっているので、

 @その漢字を朝鮮語の読みに直す
 Aその音と同じ音の朝鮮語の単語を組み合わせて解釈する

という手順になっている。

 そして、上記に、「玉藻の韓国語音オクヂヨを、音韻変化可能な範囲内で、玉女(オンニヨ)ということばを見つけて入れ換え」とあるように、時に、「オクヂヨ」「オンニヨ」と別の音の言葉を持って来て解釈を行う。

 説明では「音韻変化可能な範囲内」とあるが、「オクヂヨ」「オンニヨ」では、最初と最後しか合っておらず、それ以外の2文字の音は全く異なっている。言語学的に可能と言える「音韻変化可能な範囲内」か否かは管理人には分からないが、素人目には、なかなか強引な入れ換えに思える。


 以上のように、『万葉集』の歌を朝鮮語で読み解いてしまった『人麻呂の暗号』であるが、刊行当初は、20代の女性による大発見と称賛する声が多かった。しかし、中西進、西端幸雄、安本美典らの批判を受け、最終的には「トンデモ本」と認定されることになった。


<参考>
○Wikipedia「藤村由加
『人麻呂の暗号』 (藤村由加/新潮社/1989)
○『朝鮮語で「万葉集」は解読できない』 (安本美典/JICC出版局/1990)


 さて、これまで見て来た例は、「日本語を外国語で解釈したもの」であり、その外国語が分からなければ、素人目にはそれっぽく見えて、「すごい!」と思ってしまうものである。

 次に、これまでと違い、外国語を日本語で解釈したもの」の例を見てみたい。


(4).「アメリカ・インディアンの言語=日本語説」 (高坂和導)

 高坂和導(こうさかわどう)(1947-2002)は、宇宙人及び、『竹内文書』関連の研究に従事した人物。特に、『竹内文書』については、その内容を実証しようと、世界各地で古代日本民族の痕跡を探し求めるというフィールドワークを行っていた。

 そのフィールドワークの結果の一つとして主張されたのが、「アメリカ・インディアンの話していた言葉が実は日本語で、部族名も日本語で読み解ける」というものである。(※標題に使用した「アメリカ・インディアンの言語=日本語説」は管理人が便宜上、名付けたものである。一般に使用されている説名ではないので留意いただきたい)

 『竹内文書』では、超古代に日本の天皇が地球を統治していたとされる。高坂和導は、その名残として、アメリカ・インディアン達が16世紀まで使っていた言葉は日本語だったと主張し、さらに、アメリカ・インディアンの部族名が日本語で解釈できることをその根拠の一つとして提示するのである。

 例えば、高坂和導の著書『竹内文書 世界を一つにする地球最古の聖典』では、次のような、アメリカ・インディアンの言語と日本語との類似語があげられている。
『竹内文書 世界を一つにする地球最古の聖典』 (高坂和導/徳間書店/2008)
日本語 アメリカ・インディアンの言語 掲載
ページ
発音
発音 意味
あっち アッチ 遠く P.45
こっち コッチ 近く P.45
汝(ナンジ) ナンジ あなた P.45
徐行(ジョコウ) ジョウコウ ゆっくり走る P.48
柿(カキ) カキ 大きな果実 P.54
歪(イビツ) イビツ 歪なもの P.54
石塀(イシベイ) イシベイ 石を積み上げた囲い P.55
 (その15)で説明した通り、この程度の類似語であれば、どんな言語間でも探せば、偶然の範囲内で見つかるものである。

 しかも、「徐行」などは、音読みの熟語で、中国の漢字の読みを取り入れた比較的新しい日本語であり、「偶然」以外の何モノでもないのであるが、この件に関して、高坂和導は次のように説明する。
『竹内文書 世界を一つにする地球最古の聖典』 (高坂和導/徳間書店/2008)  P.50
 ところが、漢字を持たないナバホ・インディアンが、日本語の熟語と同音同意の言葉を持っていたのである。これがどういう意味を持つかというと、熟語は漢字の組み合わせによって生まれたものではなく、もともと日本語としてあった言葉に漢字を当てはめたものだということになる。
 どうやら、現在、漢字が音読みされる熟語は、もともと日本語としてあった言葉であるらしい(笑)

 さらに、高坂和導は、類似語をあげるだけでなく、アメリカ・インディアンの部族名を日本語で読み解き、部族名が実は日本語だったと主張する。具体的には次の表の通りである。
『竹内文書 世界を一つにする地球最古の聖典』(高坂和導/徳間書店/2008) P.75

アメリカ・インディアン部族名/日本語対応表
部族名 読み方 日本語の意味
ABNAKI アブナキ 危なきところに住み部族
ALASKAN アルアシカ アシカのいるところに住む部族
ALEUT アルイテ 歩いて渡った部族
ALGNQUIN アルゴンキン 在鋼金。つまり金鉱のある部族。
ALIKARA アリカラ 在空。つまり乾燥地でカラカラのところの部族
APACHE アパッチ あぁ、ぱっちし(バッチリ)。見事な部族
ARAPAHO アラポネー(※管理人注:何故、読みが「アラポネー」になっているのか不明だが、通常は「アラパホ」(参考:Wikipedia「アラパホ」)) 荒れた原っぱに穂が実る部族
ASSINIBOIN アシニボン(※管理人注:通常は「アシニボイン」(参考:Wikipedia「アシニボイン」)「リ」の読みはどっから出て来たんだ??) 足にリボンを結んだ部族
AZTEC アシテク (水辺の建材)芦で暮らす部族
BANNOCK バンノオク の奥に住む部族
 御覧の通り、「アルゴンキン」「在鋼金」と無理やり読んだり、時には、「あぁ、ぱっちし」と口語体。そして、「盤(バン)」と漢字の音読みが登場するかと思えば、「リボン」なんて外来語も出て来る始末である。

 素人目にも、ノーヒントでデタラメであることが分かるであろう。
単に、ダジャレを作ってるだけで、何の証明にもなっていない。

 なお、上記表は、本書に掲載されている対応表の最初の10例だけ引用したものであるが、こんな調子で6ページにも渡って対応表が掲載されている。

 こんなことをしていて、自分でおかしいと気付けない所が逆にスゴイと言えよう。

<参考>
『竹内文書 世界を一つにする地球最古の聖典』 (高坂和導/徳間書店/2008)
○『日本トンデモ人物伝』 (と学会 原田実/文芸社/2009) P.155-170



 以上、(その15)から当記事に渡り、語呂合せ等の言葉遊びをしている例を見て来た。

 「日本語と○○語との類似語はこんなにある!」とか、「日本語のある歌が、○○語で解釈できた!」等という主張が、如何に虚しいものであるか、お分かりいただけたのではないかと思う。

 結局、そのようなことは、別に特別なことでもなんでもない。

 他言語との類似語は、探そうと思えば、それなりの数を見つけることが出来るし、また、歌等を他言語で解釈しようと思えば出来るものなのである。

 そして、時に、素人が勘違いして、「○○語で解釈出来たから、この歌はもともと○○語だったんだ!」等と主張し出すだけの話なのである。


 ただし、巷でこのような言葉遊びに過ぎない主張がなされる一方で、「イチ、ニ、サン、シ・・・」がもともと中国語だとされたり、「旦那」がもともとサンスクリット語だとされたりするが、これは、言葉遊びではなく、そうである。

 果たして、これらは、これまで見て来た事例の主張とどう違うのであろうか。

 次に、(その19)では、言語学において、複数言語の比較をしてその近親性を判断したり、言葉の起源を調べたりする際、どのように行うのかについて簡単に解説しておきたい。




2013.9.10新規

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