※当記事は(その1)、(その2)、(その3)、(その4)、(その5)からの続き
当記事では、(その5)でも触れた詭弁の一つ、「論点のすり替え」について、より詳しく見て行きたい。
4.論点のすり替え
(1).「論点のすり替え」とは
「論点のすり替え」は、Wikipediaの説明では以下の通りである。
<参考>Wikipedia「論点のすり替え」より)
論点のすり替えは、非形式的誤謬の一種であり、それ自体は妥当な論証だが、本来の問題への答えにはなっていない論証を指す。 |
この説明では分かりにくいかも知れないが、その名の通り、「論点」を別の「論点」にすり替えてしまうことで、(その5)の例で見たように、「ダミーか否か」という「論点」を「実体があるか否か」という「論点」をすり替えた上で、本来の「論点」である「ダミーか否か」を否定してしまうような詭弁を言う。
第三者委員会の「西松建設の政治団体に実体がないとは認めがたい」という主張は、「それ自体は妥当な論証」なのであるが、本来、「論点」となりえるのは、「該当政治団体がダミーか否か」、もしくは「該当政治団体がダミーであることの認識があったか否か」であり、「本来の問題への答えにはなっていない論証」なのである
この「論点のすり替え」は、世間でよく見られる詭弁であるが、どのような理由で使用されるかと言うと、おおよそ次の2通りである。
@.正論では反論できない時、無理やりにでも反論したいから
A.楽だから |
まず、「@.正論では反論できない時、無理やりにでも反論したいから」を説明する。
通常、議題となっている「論点」で反論できる要素を探しても見つけられない場合、相手の主張に同意するか、返答を保留することを願い出て、別途、時間をとって考えてから返答する必要がある。
しかし、「相手に議論で負けたくない」、「同意したくない」等と言う「欲」で議論している人は、現在の「論点」で反論できないことを認めず、必死になって反論できる要素を探すことになる。
そして、ついには、現在の「論点」から逸脱して、その「論点」の周辺を探索し始め、そこで反論できる要素を見つけることが出来たら喜び勇んで反論し、相手の主張を否定できた気になるのである。
もちろん、「論点のすり替え」が詭弁で反論になっていないことを分かった上で使用している人もいるのだが、大抵の人は、上述のような「相手に議論で負けたくない」、「同意したくない」等という「欲」に基づいて行動した結果、自分では気づかぬ内に、「論点のすり替え」を使用することになる。
次に、 「A.楽だから」であるが、次の節で合せて説明する。
さて、このような解説だけでは、分かったような気になるだけだと思われるので、次に、実際に論点をすり替えてみたいと思う。
(2).論点をすり替えてみる
政府が提出したある法案のケースで考えてみよう。
当然ながら、その法案について賛否を決める場合は、その内容を吟味した上で決めなければならない。しかし、「論点のすり替え」を使用すれば、具体的な内容など知らなくても否定が可能となる(正確には「否定できた気になる」だが)。
例えば、次のような「論点のすり替え」が可能であろう。
@.法案を作成した人を否定する。
「この法案を作った人は、何かと黒い噂が絶えない人物だ。この法案の提出にも何か裏があるに違いない」
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A.法案を作成した政党を否定する。
「この法案を作成した○○党は財界との癒着が強く、また、金権政治を行っていることは周知の事実だ。そんな政党の作った法案がまともなものであるはずがない」
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B.法案が作成された過程を否定する。
「この法案は第三者の意見を取り入れることなく、密室で作成されたものだ。こんな怪しい法案を通すわけには行かない」
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先にも触れた通り、本来、「論点」にすべきものは該当の法案の内容である。上記例で主張されているものは法案の内容とは直接関係ないことであり、かつ、否定的なイメージを与えているだけで何も具体的に否定できていない。
例えば、@は「何か裏があるに違いない」と主張しているが、その裏が何かを具体的に提示できなければ、根拠脆弱な単なる推測に過ぎない。
また、Aは、「まともなものであるはずがない」などと言って満足していないで、「どう、まともでないか」を具体的に指摘すべきだろう。
そして、Bは、「第三者の意見を取り入れていない」と主張しているが、第三者の意見を取り入れなかったことで、その法案に何が足らないのかを具体的に指摘できなければ意味がないだろう。
上記例のような主張をしても実際は意味がないのだが、それでも、このような中身のない主張でも、それが提示する否定的なイメージにまんまと印象操作されてしまう人達がいるのも事実であり、そのような人達は「論点」というものが分かっていないのである。
ちなみに、@のように、主張の内容ではなく、主張している人そのものを否定したり、攻撃する詭弁を「人身攻撃」とか、「人格攻撃」と言う。
<参考>Wikipedia「人身攻撃」より)
人身攻撃とは、ある論証や事実の主張に対する応答として、その主張自体に具体的に反論するのではなく、それを主張した人の個性や信念を攻撃すること、またそのような論法。論点をすりかえる作用をもたらす。人格攻撃論法ともいわれる。 |
「子供のくせに偉そうな口を叩くな」、「学生が偉そうな口を叩くな」、「平社員のくせに偉そうな口を叩くな」。反論に困った相手からこのような言葉が吐かれるのを聞いた人も多いだろう。
反論に困ってこのようなセリフを吐く人は、現在の「論点」では反論できないので、「論点」を議論している相手そのものにすり替えて、否定できた気になっているのである。
さて、上記の法案の例であるが、「論点のすり替え」を使って否定しようと思えば、他にも
○法案を支持している人を否定する
○法案を管轄する官庁を否定する
○法案の名称を否定する
○法案が作成された場所を否定する
など、アイデア次第でいくらでも否定が可能である。
本来、「論点」にすべき「法案の内容」から離れて、法案に関連する周囲を探って行き、否定できそうなものを見つけて否定すれば良いだけの話であるから、いくらでもすり替え対象が転がっているのである。
以上、「論点のすり替え」を使えば、否定したいと思うものを、いかに簡単に否定することが出来るかがお分かりいただけるのではないかと思う。
何度も言うが、実際は否定できているのではなく、「否定できた気になっているだけ」なのだが、考える力の無い人にはそれで十分であり、楽して否定できるから、「論点のすり替え」が世間で散見されることになっているのである。
<参考>上記「(2).論点をすり替えてみる」の内容は以下の書籍を参考にした。
『知っておきたい 考えることの基礎』 (石川倉二・星雲社・2010) P.208-212 |
続いて、(その7)では、「論点の重み」について解説して行きたい。
2014.04.08新規
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