『ベールを脱いだ日本古代史』にツッコミ!(その4)
※当記事は(その1)(その2)(その3)からの続き



 当記事では、坂本様が高次意識から聞いたという日本古代史にツッコミを入れて行きたい。

<P.126-127>
第3章 縄文時代と縄文人の祀った龍神

 それでは次に、この時代の日本について、さらにアトランティス崩壊後の日本について受け取った情報を紹介する。
 日本にはムー以来ずっとムーの伝統を守る人々が生きてきている。自然と共存する生き方だ。それはネイティブ・アメリカンやハワイアン、アマゾンの人々、さらに、ニュージーランドのワイタハ族などに伝わった。
 ムーの植民地ではアトランティスをはじめシャンバラなどもみな物質的な価値観が広まり、今の物質文明と同じような社会に変貌していった。ハイテクを駆使する社会だ。もちろん
日本にも数万年前にはハイテクを使う文明があり、宇宙人と共存する都市があったりした。が、精神性では、自然との共存ということを決して忘れずにいた。そのため、日本に世界中の民族が集まって式典を行なうということが、ある時期までは行われていた
 ただ、それも次第に行われなくなり、日本は物質文明化した世界の国々からは古い価値観の民族ということで馬鹿にされるようになった。
日本人も空飛ぶ乗り物(天の岩船)を使わなかった訳ではなかったが、精神面で、自然との共存という、当時としては古い価値観に固執する民族と思われていた。


(※管理人注)青字にしたのは管理人(以下同様)。
 どうやら、「日本にも数万年前にはハイテクを使う文明があり、宇宙人と共存する都市があったりし」「日本人も空飛ぶ乗り物(天の岩船)を使」っていたりしたらしい。

 また、「日本に世界中の民族が集まって式典を行なう」などの記述から鑑みると、坂本様はどうやら、竹内文書の影響を直接的、もしくは、間接的に受けているようだ。

 竹内文書では、太古の昔、日本の天皇が世界を統治していたとし、空を飛ぶ船に乗って、天皇が世界を巡幸していたりしていたとする。

 ここら辺も間違いなく、トンデモ本の影響である。
<参考>
○Wikipedia「竹内文書
 しかし、数万年前の日本に、ハイテク文明や「宇宙人と共存する都市」があったと言うのなら、遺跡等が見つかりそうなものだが。


 そして、
<P.127> ※上記からの続き

 ところが、物質文明があまりに進み、ネガティブ性が急速に高まるにつれて、それがさまざまな災害を惹きつけるようになった。その結果、最後に隕石がふたつ落下して、アトランティスなど、すべての文明は滅んでしまった
 
日本でも物質文明は失われたが、その後も精神面ではそれまでの伝統を守っていった。それは、龍型シリウス人を神々と崇め、それと交信するという形で続けられることになった
 日本古来の物の見方、生き方、それはムーの伝統を引き継ぐものだった。それは縄文時代まで引き継がれてきていた。


 空飛ぶ船などを持ったハイテク文明は、「最後に隕石がふたつ落下して」「すべての文明は滅んでしまった」らしい。

 この隕石は、「1万2千年前に大西洋に2個の巨大隕石が落下」(P.122)したもののようだ。その隕石落下は「300メートルの高さの津波を生んだ」(P.122)らしいのだが、落ちた場所は
大西洋なのだから、日本への影響は限定的であろう。

 そして、その影響として、「温度が一挙に上昇し、それまでの氷河期が終わり、海水面が100メートル上昇した」(P.123)らしい。

 
それでも、日本を含む、世界中のハイテク文明が全て失われて原始時代に戻ってしまうとは、とても思えないのだが。


 さらに、続きを見てみよう。
<P.128> ※上記からの続き
山の神
 日本人は大自然に神を見て、それとつながる生き方をしていた。特に山に神が宿ると見なしていた。実際、日本のさまざまな山に高次の非物質の生命体が宿り、その頂へと登ることで、交信することが可能だった。
 たとえば、あなたは数年前に屋久島の山々へ行った際に体験したが、あそこでは実際にそういう生命体たちと交信できた。
 それから
三輪山。あそこであなたはシリウス系の龍の姿をとる生命体と交信した。縄文末期にもあなたは彼らと交信していた。縄文時代には龍型シリウス人は龍や蛇の姿をとるので龍神や蛇神と見なされた。三輪山では大物主神(おおものぬしのかみ)と呼ばれる。大己貴命(おおなむち)と呼ばれることもある。
 このように日本各地の山には、高次の生命体がいて、縄文人のシャーマンと交信していた。

 縄文人は、三輪山等の山で、「シリウス系の龍の姿をとる生命体と交信」していたらしく、シリウス系の生命体は、三輪山では大物主神(おおものぬしのかみ)とか大己貴命(おおなむち)と呼ばれていたらしい。

 大己貴(おおなむちの)神は、「因幡の白兎」で有名な大国主神の別名で、また、古事記では、大己貴(おおなむちの)神(=大国主神)の和魂(にぎたま)が、大物主(おおものぬしの)神である。

 ちなみに、三輪山をご神体とする大神(おおみわ)神社では、大物主(おおものぬしの)大神を主祭神、大己貴(おおなむちの)神を配神として祀っている。
<参考>
○Wikipedia「大神神社
 そして、どうやら、坂本様によると、大己貴(おおなむちの)神の正体は、「シリウス系の龍の姿をとる生命体」のようだ。


 また、
<P.129>

 後でお話するが、日本各地にあった縄文人が神を祀った場は、その後、渡来人である出雲族が各地へ進出するにつれて、大国主(おおくにぬし)神を祀るようになった。そのためオオナムチとして認識されていた神は、その後、多くの場合に大国主神に統合されることになった。
 ただ、両者は本来別々のものである。
 
大国主神は、出雲族の歴代の首長を神格化した存在である。トートを大国主と把握する場合もあった。それに対して、オオナムチは縄文人が交信していた龍型シリウス人である。ただ、縄文人の間でもオオナムチを首長を神格化した神と崇めるようになっていたので、大国主=オオナムチは受け入れやすかった。

 坂本様によると、本来、以下の通りであるらしい。
○大国主神 ・・・ 出雲族の歴代の首長を神格化した存在
大己貴(おおなむちの)神 ・・・ 縄文人が交信していた龍型シリウス人
 そして、その後、「出雲族が日本各地へ進出するにつれて、大国主(おおくにぬし)神を祀るようにな」り、大己貴(おおなむちの)神は「多くの場合に大国主神に統合され」たらしい。

 はあ、そうですか。。。

 ちなみに、『出雲国風土記』に掲載されている出雲神話では、「オオナムチ」は登場しても、大国主神」という名は登場しない。
 そして、『出雲国風土記』では、「オオナムチ」は次のように表現されている。
○天の下造らしし大神
○天の下造らしし大神命
○天の下造らしし大神大穴持命
天の下造らしし大穴持命
大神大穴持命
○大穴持命

※参考:『出雲の神々と古代日本の謎』(瀧音能之・青春出版社)
※古事記では、オオナムチは「大穴牟遅神」と記載されている
 風土記は、奈良時代に諸国の国司に命じて、地方の文化風土や古伝承等をまとめさせたものである。

 もし、坂本様の言う通り、大国主神が本来、出雲族の歴代の首長を神格化した存在であるならば、
『出雲国風土記』にこそ、「大国主神」という名で登場しなければおかしいであろう

 確かに、「『大国主神=大物主(おおものぬしの)神=大己貴(おおなむちの)神』が、本来は別々の神が統合されたもの」という話もあるのだが、坂本様の、「大国主神は、出雲族の歴代の首長を神格化した存在」という主張は的外れなものなのである。


 さて、次に、日本に稲作が到来した頃の話を見てみよう。
<P.136-137>
 この時代についてトートに教えてもらう。
 縄文時代末期になると中国の揚子江流域から直接に、あるいは、朝鮮半島南部を経由して、稲作の民が入ってきた。
 彼らが入ってきた地域は、主に九州(と、そこを経由して瀬戸内海沿岸部)出雲、丹波(ここでは古代丹波国のことで、7世紀以降に丹波、但馬、丹後に分かれる)であり、特に九州北部、西部、南部へは何波にも分かれて渡来した。
 彼ら渡来人は、稲作技術と金属器(青銅器、鉄器)、新型の土器(弥生式土器)をもたらした。遺伝子的にも旧モンゴロイドである縄文人に対し、渡来人は新モンゴロイドであり、見た目もはっきりとわかる差があった。
 また、渡来人はグループによってそれぞれが異なる言語を話していた。縄文時代の日本人は、今のアイヌ語へとつながる言葉を話していた。それは今でも日本全国各地の地名として残っている。

 なんか、別に、わざわざ高次意識であるトート様に教えてもらわなくても、歴史の本を読めば普通に書いてある内容である。

 超古代の話は、幻の大陸あり、超文明あり、核戦争ありと、非常に楽しい内容であったのに、
何故か、1万2千年前に巨大隕石が落下した後は、ごく普通の内容になってしまって面白みに欠ける

 せいぜい、縄文人が「シリウス系の龍の姿をとる生命体と交信」していたとか、「アマテラス族は、元々シャンバラにいた」(P.154)という話ぐらいである。

 その理由は容易に推測できる。

 それは、次の通り、
坂本様のベースとなっている知識が異なるからである。
<ベースとなった知識>
○超古代〜1万2千年前 ・・・ オカルト系を主としたトンデモ本
○1万2千年前以降    ・・・ まともな歴史関連の本
 坂本様は以下の通り、日本の古代史を明らかにするにあたって、歴史の勉強をしている。
<P.104>
 以下、日本の古代史についてこの存在から得た情報を順にお話ししていこうと思う。
 情報の来方だが、
会話のように言葉で教えてもらうこともあったが、そういう形はむしろ例外的だった。自分でいろいろ調べていくことが必要で、そうする過程で次第にひとつのストーリーに落ち着いてくるのである。

 ここで、「自分でいろいろ調べていくことが必要」とあるのがミソで、日本の古代史についてあまり知識の無かった坂本様は本を読んで勉強したのである。

 そして、本書に書かれている日本古代史の内容を見れば、それが主として、
「まともな歴史関連の本」であったことは間違いない。


 このように、トンデモ本ではなく、「まともな歴史関連の本」で勉強しちゃった坂本様。

 その為に、上記の稲作伝来以降の、坂本様が提示する古代史は
面白くもなんともない

 何故なら、超古代史のどうしようもない内容とは違い、通説をベースにそこから想像を膨らませただけのものなので、基本的に、
「まあ、もしかしたら、そういうことだったかもしれないね」程度の内容に変わってしまっているからだ。


 よって、坂本様の古代史へのツッコミはこれまでとし、(その5)では、その他個別の内容にツッコミを入れていきたい。

 なお、上記文章は次のよう続く。
<P.104> ※上記からの続き
 そうすると、何かピタッとジグソーパズルがうまく合ったときのような満足感がある。そうでない場合は、何かまだだという感覚が残る。そこでさらに調べていくと、最終的にピタッとする答えに行き着くのである。なので、けっこう時間をかけて試行錯誤を繰り返し、落ち着くところに落ち着かせるという作業を行った。万貴さんが言う「謎解き」と同じである。
 自分で調べて、「試行錯誤を繰り返し」「最終的にピタッとする答えに行き着」かせる為の、「謎解き」のような作業。

 なんだよ、やってることは、
ただの考察作業じゃねーか(笑)。

 高次意識に真実の歴史を教えてもらっているのなら、「試行錯誤」なんか必要ないでしょ、坂本様!




2012.7.24新規

何で坂本様自身が試行錯誤しなきゃいけないのやら。自分でおかしいと気づきなヨ。。。