※当記事は(その1)、(その2)、(その3)、(その4)、(その5)からの続き
6.自己の「欲」を追求しながら、自己を制御できているつもりになる欺瞞
(その5)で紹介した釈迦の以下の言葉と、それを実践する為の八正道。
「自己を制御することは、実に難しいものである。自己こそ自己の主である。いかなる主が他にあろうか。自己のよく制御されたとき、人は得難い主を得たのである」(『法句経』) |
これらの教えに従っていれば、仏教徒は皆、素晴らしい人格者ばかりのはずであるが、ご存知の通りそうではない。
仏教にしろ、キリスト教にしろ教えは素晴らしいのに、それらの教えを奉じている人達からは、何故か、欲にまみれ、教えと反した行動をしても平気な人が多々出て来るものである。
何故だろうか。
その答えは、これまで見て来た「反省できない人たち」の思考・行動の中にある。
例えば、上記の釈迦の言葉に接した時、多くの人は次のような二律背反に直面することになる。
○自分の欲を追求したい
○自己の主が自己になっていると思いたい
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もちろん、自分の欲を追求したいのであれば、自己を制御して「自己の主が自己」になることは出来ないし、一方、自己を制御したいのであれば、自分の欲を捨てる必要がある。
二律背反だから、一方を得たいのであれば、他方を捨てる必要があるのである。
しかし、人は、片方を捨てることなく、両方を手に入れる手法を知っている。
その手法が、今まで説明してきた「反省できない人たち」の次の思考・行動法である。
@.自分が犯した過ちや間違いを、見ない(文字通り、目を背ける)
A.自分が犯した過ちや間違いを、過ちや間違いだと認めない(見るには見るが、否定してしまう) |
もちろん、これは、主観のみの話で事実とは異なり、実際は、「欲を取って、自己を制御することを捨てた行為」であるのだが、誤魔化しの人生を生きている人にとっては主観のみで十分なのである。
これまで見て来たインチキ霊能者たちのように、神の教えや自分自身が説いている教えに反する行為をしても見ないし、過ちや間違いだと認めない。
そして、見ないし、認めないのだから、教えに反する行為も平気で出来る。
加えて、見ないし、認めないのだから、自分は教えを守っているきちんとした人間だと思っていられる。
また、彼らは自分の欲を追求する為に、より積極的にその欲の正当化ということを行う。例えば次のようにである。
<欲>お金がいっぱい欲しい。
→ (正当化)愚かな人たちが無為にお金を使うより、私のような優れた人間がそのようなお金を集めて、有意義に使用する方が神の御心にかなっている。
<欲>もっともっと高い地位に就いて、権力欲を満たしたい。
→ (正当化)私こそが、神の御心にもっとも近い存在であり、自分が高い地位に就くことで、世界により、神の御心を広めることができる。
<欲>自分を批判するアイツが許せない。アイツを攻撃して黙らせたい。
→ (正当化)アイツは神の御国の実現を邪魔する悪魔だ。どんな手を使っても黙らせてやった方が、アイツの為。これ以上、罪を犯させない為の慈悲なのだ。
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このように正当化さえしてしまえば、自分の「欲」の為にやっていることが、神の為や相手の為になってしまうカラクリ。
神の側や正義の側の人間のはずが、やろうと思えば、大虐殺さえ可能である。
「我々を批判するあの集団は、自分たちが悪の側であることを気付いていない愚かな連中である。
これ以上、神の御心を遂行する我らの邪魔をして罪を重ね続けるよりは、人生を終わらせてやった方が彼らの為なのであり、それこそが愛なのだ。」
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このように正当化してしまえば良いだけの話だからである。
見ない、認めない(正当化)
これらを使って、当初の教えは、「欲」にまみれた人によってどんどん歪められ、教えと真っ向対立するような行為が平気でなされることになる。(もちろん、最初から「欲」にまみれて歪んでいるケースもあるのは、これまで見て来た通りである)
そして、このようなことは、宗教だけの話ではない。同様のことは、この世のあらゆる所で行われている。
○公平・中立を建前としながら、平気で偏向したニュースを報道するメディア
○正義(人権、自由、平等、差別反対、平和・・・)を標榜しながら、一方で、それに反する行為を平気でする団体。
○「お客様第一」と称しながら、金儲けしか頭になく、顧客に被害が生じても何とかもみ消そうとする企業。
○「国民の為に命を捧げる」と宣言しながら、自分の主義・主張を通したいだけの政治家
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このような矛盾した行為が行われるのも、見ない、認めない(正当化)ことで、現実の自分の姿から目を背け、かつ、自分自身と他人を騙しているからである。
そして、そうすることによって、これまで見て来た自称霊能者と同様に、「自分は正しいことを行っている」、「自分は正義の側にいる」等と思い込んで幻想の中にひたっているのである。
見ない、認めない(正当化)という自己欺瞞。それこそが社会の歪みをもたらす要因であり、憎むべき偽善の源泉である。
彼ら自身は善を行っているつもりなので、偽善を行っているという認識はない。また、罪を犯しながら、その自分自身の行為を見ないので、罪を犯しているという認識はない。
そして、自分は善の側、正義の側に立っていると思い込んでいるので、反省することもなく、当然、改善されることもない。いつまでも自分自身と他人を騙し、偽善を、そして、罪を行い続けることになる。
さらに、そんな彼らは、権力等といった力を手に入れれば入れるほど、それまで抑えてきた「欲」を解放することになる。
これまで見て来た自称霊能者たちが良い例である。
そして、その延長には、オウム真理教がしたような殺人行為や無差別テロがあり、また、これまでの人類の歴史に刻まれた、宗教によって行われた悪逆非道な行為、そして、崇高な理想を掲げた革命集団によって行われた大虐殺等があるのである。
全ては同根である。
このようなことは、「見ない、認めない(正当化)ことで、理想を建前に自分と他人を騙し、実際は自分の『欲』を追求している人間たちの手で行われた」ということをよくよく承知して置くべきだろう。
2014.07.22新規
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