『心の発見 現証篇』にツッコミ!(その5) ・・・ 高橋信次さま |
※当記事は、(その1)、(その2)、(その3)、(その4)からの続き
(その4)で見た通り、高橋信次様の造語である「現証、理証、文証」は、本物の「宗教の指導者達」なら備えており、かつ、本物か否かの判断基準となるものであるらしい。
では、具体的に「現証、理証、文証」がどのようなものなのか。高橋信次様の説明を見て行こう。
<P.156>
文証・理証・現証を内在する正法
正しい中道の生活努力の積み重ねによって、得ることのできる正法には、文証と理証と現証の三つが具備されているものだ。
文証は、永い歴史を通して、語られ伝えられ記録されてきた、不退転の証である。
(※管理人注)文字に色を付けたのは管理人(以下、同様)。
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最初に文証の説明が登場する。
文証は、永い歴史を通して、語られ伝えられ記録されてきた、不退転の証である |
う〜ん、分かったような、分からないような。。。
いまいち何を言っているか分からないので、まずは、最後の「不退転の証」から分析して行こう。
「不退転」という言葉は「不退転の決意」という表現があるように、通常、人の意志や思いに用いられる言葉である。よって、違和感があるが、まあ、「不変」と言うことであろう。
また、「証」とは、直前の文章に「正法には・・・」とあるので、「正法であることの証」であろう。
つまり、「不退転の証」とは、「不変の、正法であることの証」ということで合っていると思われる。
が、「文証とは、不変の、正法であることの証である」と言われても、具体的なものが何もない。
この説明で、「さあ、あの宗教的指導者が文証を備えているか検証してみよう!」と言われても、検証できるワケがない。
まあ、説明は始まったばかりなので、続きを見てみよう。
ちなみに、飛ばした「永い歴史を通して、語られ伝えられ記録されてきた」は、例えば、「その都度、語られて来た」という意味で、「語られたことが現在まで伝えられて来た」という意味ではない。
このことは、続きを見て行けば分かるのだが、先に記載しておく。
<P.156> (※上記からの続き)
原始仏教、原始キリスト教のように、後世の学者やゴロ宗教家によって、書き改められたり、ときの権力者達の意志によって歪められたりしたものには、すでに文証の力はなく、心は失われている。
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どうやら、「原始仏教、原始キリスト教」は変えられてしまったから、「すでに文証の力はな」いらしい。
そして、、、
<P.156> (※上記からの続き)
特に、多くの習慣や言葉で書き改められ、各国を経て伝えられてきたもののなかには、間違いを犯してしまったもの、変化してしまったものが多いだろう。
特に、仏教は、原始仏教、小乗仏教、大乗仏教などに造り変えられ、他力本願になった姿を見れば、正しい文証とはいいにくいようだ。
後世に名前が残っている人でも、皆聖人君子ではないのと似ている。
時代、時代の人間が造りだしたものがあるのだ。 |
ここでは「特に、仏教は、原始仏教、小乗仏教、大乗仏教などに造り変えられ」とあり、どうやら、高橋信次様の中で原始仏教は、釈迦の生きていた頃の仏教は含まれていないようだ。「原始キリスト教」についても同様なのだろう。
原始仏教って、釈迦在世時代も含んでるのにねぇ。。。
「原始仏教」 広辞苑
釈迦在世時代から各部派に分裂するまでの初期の仏教。仏滅後百年頃までの仏教を言う。 (※後略)
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で、文証の説明のシメ。
<P.157> (※上記からの続き)
不変的なものは、人間によって変えることのできない神理であり、私達の心のなかに正しく生き続けているものである。
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さあ、皆さん、この説明で、文証が何かを理解し、「宗教の指導者達」を本物か検証できるようになっただろうか?
まあ、無理であろう。
本来、文証の定義が記載されているべきなのであるが、どこにも明記されていないからだ。
ただ、文証という言葉と、ここで記載されていることをヒントにすれば、文証とは次のような定義であると思われる。
文証は、不変の神理が言葉や文章によって表現されたものであり、正法を得たことの証となるものである。
そして、不変の神理は、私達の心の中で生き続けているものである。
ただし、一度、表現されると改変されて行くことになるので、文証としての力は失って行くことになる。 |
補足しておくと、先に「不退転(不変)の証」と表現されていたが、「不変的なものは、人間によって変えることのできない神理」という文章を鑑みると、本来、「不退転(不変)の」は「神理」にかかるべきものであると思われる。
で、結局、「神理は、私達一人一人の心の中にあるんだ!」というオチ。
さて、こうやって、文証を定義付けしてみても、私には、使えるモノだとは思えないが、続いて、理証の説明を見てみよう。
<P.157> (※上記からの続き)
理証は、大自然と人間の在り方を実証し、文証によって示されているもの、といえよう。
大自然の法理である、神の心の現れこそ、大自然の理証として現わされたものであろう。
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理証の定義は、
理証は、大自然と人間の在り方を実証し、文証によって示されているもの |
らしい。
ま〜た、なんか、分かったような分からないような。
まず、最初の「大自然と人間の在り方」は、後に記述されている「大自然の法理」と同じと言うことで良いだろう。そして、端的に言えば、「神理」のことであると思われる。
高橋信次様は、「人間とはこうあるべきだ。こうすべきだ」等というモノが神理として存在し、それらは不変のものだと高橋信次様は考えているのだろう。
そして、その「大自然と人間の在り方」を「実証」するのが理証である。
「じっ‐しょう【実証】」 goo辞書
2 確かな証拠をもって証明すること。事実によって明らかにすること。「推理の正しさを実証する」 |
「理証」に「理」の文字を使用されていること勘案すれば、ここでは「理性的、論理的に証明する、明らかにする」と言った意味で使用しているのであろう。
以上、本物の「宗教の指導者達」なら備えており、かつ、本物か否かの判断基準となるものであるらしい「現証、理証、文証」、その内の理証と文証について見て来た。
無茶苦茶、分かりにくい説明であったが、結局、、、
あんた自身が、理証を満たしてねぇじゃん!
だって、(その1)〜(その4)までで見て来たように、高橋信次様は「実証」など出来ていないからねぇ。
そして、理証ができてないので、それを文証によって示すこともできない。つまり、文証も満たしていない。
よって、理証、文証という基準で、高橋信次様が本物の「宗教の指導者達」か否かを検証すれば、偽物ということになる(笑)
まともに考えられない人は、物事をまともに見ることが出来ない。
物事を解釈し、価値を判断するには、思考が介入し、その思考が歪んでいれば、物事も歪んで捉えられることになるからである。
そして、それは、自分自身を見る時も同様である。
続いて(その6)では、残った現証について見て行こう。
2018.05.22 新規
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まあ、高橋信次様自身は、「否定することはできないであろう」、「明らかであろう」などと言って、実証できてるツモリなんだけどナ。 |
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そ |