※当記事は(その1)、(その2)、(その3)、(その4)、(その5)、(その6)、(その7)、(その8)からの続き
当記事では、(その8)に引き続き、「論点」や「論点の重み」が分かっていない人たちがする批判や反論のパターンを見て行きたい。
(3).感情論・主観だけの議論
こちらは、(4)で見た結論だけの議論の類型の一つであるが、世間で頻繁に見られるものなので、あえて別の節とした。
例えば、次のように感情論だけで否定するものである。
これらは、論証だろうが、何かの結果だろうが、他人の言動だろうが、何にでも使用できるオールマイティのもの。自分が否定したいものには、この結論だけを主張しておけば良いという便利なシロモノである。
そして、自分が感じたままを語っているだけなので、そんなものは議論しようがない。「ウザいか、ウザくないか」など、本人がそう感じたと言うのなら、それ以上どうしようもないからである。
ただし、他人の主張や論証について、このような反論(?)をしても、頭が悪そうにしか見えない。自分の感情のままに喚いているに過ぎず、理性のカケラも感じられないからである。
高校生以下がこのような発言をするのは、「まだ成長過程だから」と思ってまだ許せるが、大人がこのような物言いをしているのを見ると、絶望的な気分にさせられる。「この人は一生、自分が不快と感じるものに接したら、『ウザい』と攻撃することを繰り返し、空虚な自分を守り続けるのだろうか」と。
このような物言いは、せめて、成人するまでには卒業してもらいたいものである。
ちなみに、管理人もこの手の批判メールをもらったことがあり、「あなたみたいな人は、私、絶対にムリ」と告白してもいないのに、フラれたことがある(笑)
また、同様のパターンでは、以下のような主観のみの議論もある。
○私は、そうは思わない
○それでも、私は間違っているとは思わない。 |
このように、「思わない」と主観のみを述べて、絶対に「何故、そう思わないのか」という根拠を示さない場合である。
完全に論破された時や、反論しようがない厳然たる事実を突き付けられた時など、それを認めたくない時にこのような発言がなされる場合が多く、言われた相手は呆れることになる。
(4).「論点」をすり替えた議論
こちらは、「論点(その6) 4.論点のすり替え」で解説したので、説明は省略する。
何が「論点」になり得て、また、何がなり得ないのか分からないから、本来、議論されている「論点」からは離れた、意味のない反論をすることになるのである。
(5).「論点の重み」が分かっていない議論
こちらも、「論点(その7) 5.論点の重み」で解説したので、説明は省略する。
「論点の重み」が分かっていないから、結論に何の影響も与えないような些細な誤りを見つけて、鬼の首を獲ったかの如くに大喜びで指摘することになるのである。
7.論点が分かっていない人の議論 ・・・ 否定には否定
「論点」や「論点の重み」が分かっていない人たちがする批判や反論のパターンを見て来たが、結局のところ、そのような人たちは、「否定には否定」、そんな程度のおおざっぱな認識しかないのである。
反論したいが、何を「論点」に否定すれば、否定できたことになるかが分からない。だからこそ、何でもいいから、とにかく、否定をぶつけて、否定できた気になるのである。
(その6)で見た人身攻撃(人格攻撃)などは、分かり易い例である。
@.相手が、論理的に自分の主張を否定してきた。
A.しかし、自分は反論できない。
B.このままでは自分の主張が否定され、ひいては、自分が否定されたことになってしまう。
C.そんなことは我慢ならない。そうだ、相手そのものを否定してやれ。
D.「平社員のくせに偉そうな口を叩くな!」 (人身攻撃) |
人身攻撃というものは、おおよそ、このような思考過程を経て発現することになる。
本来、自分の主張の誤りを正されることは、自分にとって有益なことである。
しかし、そのような考え方が出来ず、自分自身が否定されたような気になってしまう人が、人身攻撃等の詭弁を使って反撃をし、相手の主張を否定できた気になって自己満足することになる。
そして、結果、「自分の誤りを正せない」というマイナスを、自分自身にもたらすことになるのである。
さらに、そのような人たちは同じことを繰り返すことにより、どんどんどんどん、自分の誤りを蓄積して行くことになる。
そして、そのまま年をとって、自分では、年相応の分別や知性を身に付けたつもりになるが、実際は、自分の誤りと向き合わず、詭弁等を使った誤魔化しの人生を生きて来ただけ。「中身のない、薄っぺらな人格や知性しかないのに、自尊心だけは人一倍強い」という残念な老人になってしまうのである。
さて、ここで、少し話は変わるが、小学生の悪口の応酬というものを考えて見よう。
例えば、次のような悪口を言われた場合、どう言い返すだろうか。
まず、応酬のパターンの一つとしては、次のように、「言われたことを否定する」というものがあるだろう。
ただ、この反論だと、言われたことを否定しただけなので相手にダメージはない。例えるなら、ヤリで突かれたのを盾で防御しただけである。
やはり、悪口の応酬としては、相手にダメージを与え返す方が良い。例えば、以下のようにである。
こちらの方は、ヤリで突かれたのを、ヤリで突き返したことになり、先のものより効果的な応酬となる。
このような感じで、小学生の悪口の応酬というものは、どちらか一方が言い返せなくなるまで続いていくものである。
そして、そこにあるものは、
とにかく、相手を否定する情報を相手にぶつければいい。そして、その情報は相手そのものでなくてもよく、相手の親兄弟など、関連するものであれば何でもいい |
というものであり、「否定には否定」というザックリとしたものしかないのである。
既にお気付きの方も多いと思うが、これは、「論点」や「論点の重み」が分かっていない人たちがする議論と同じで、大人になって、使用される言葉や表現が変わっただけに過ぎない。
結局のところ、「論点」や「論点の重み」が分かっていない人たちと言うのは、小学生の頃から考える力が成長しておらず、大人になっても「小学生の悪口の応酬」レベルのものを平気で続けている人たちなのである。
以上、「論点」について(その9)にまで渡り、見て来た。
ここで解説したようなことは、ちょっと考えれば誰にでも分かる簡単なことのはずである。しかし、身に付ける人は自然と身に付けるが、一方で、身に付かない人は一生身に付かないものである。
何故そのような差が出て来るかと言うと、それは、一言で言えば、「客観性の違い」である。
客観的に見れば、意味の無い反論をしていることに気づけるはずなのに、客観的に見ないから気づけない。己の中に、客観性が十分育っていないのである。
「間違いを認めたくない」、「自分が正しいと思うことを正しいと思っていたい」等という「欲」に縛られ、主観だらけ。客観性からは程遠いところにいるから、いつまで経っても、意味の無い反論をして自己満足し続けることになるのである。
2014.04.29新規
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