インチキ教祖・教団の手口(その10)
※当記事は、(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)(その6)(その7)(その8)(その9)からの続き


 当記事でも(その9)に引き続き、インチキ霊能者・教団が信者たちに刷り込む、都合の良い概念の例を見て行きたい。



6.特定概念の刷り込み

(3).真理は理屈を超えている

 事実、理屈ではなく、感性で捉えるべき事柄もあるのだが、教祖や教団がこういうことを言い出すとヤバい。

 その理由は、まず第一に、この概念が
教義の矛盾等を誤魔化す為の詭弁として使用されるからだ。

 いくら理路整然とその教団の教義の矛盾点・誤ちを指摘されようが、

   「真理は理屈を超えている」

そう言っておけば、全ての批判を吹き飛ばすことが出来る。

 しかも、より上の位置に立っているような気分さえ味わうことが出来るのである。
「私はその理屈を超えたものを理解しているのだ」と。

 もちろん、実際には、
ただの詭弁であり、上位にいるなどただの錯覚である。


 
真理には言葉で説明出来るものと、出来ないものがある

 言葉で説明出来るものは、理屈を使用せずに説明するなど不可能であり、かつ、理屈を使用せずに説明されたものを理解することも不可能。

 もし、真理が言葉で説明されていて、その説明が理解出来ないのなら、それは、その説明をした人間がその真理を理解していないか、もしくは、言葉で説明出来ないものを説明しようとしているかのどちらかである(※説明がヘタ、もしくは、読解力が著しく劣っている場合は除く)。

 よって、
言葉で説明できる真理が、理屈を超えていると言うことはない

 一方、言葉で出来ないものは、例えば、イチゴの味がある。

 イチゴを食べたことのない人に、言葉を使用してイチゴの味を伝えることが出来るだろうか。

 出来はしない。たとえ
「初キッスの味」などと詩的な表現をしようが、せいぜい分かったような気になれるだけである。

 では、どうすれば、イチゴの味を知ってもらうことが出来るのだろうか。

 それは、実際にイチゴを食べさせてあげるか、イチゴを手に入れる方法を教えてあげるかのどちらかである。

 
言葉で説明出来ない真理も同様で、その真理を知らない人には、実際にその真理を体験させてあげるか、その真理を体験できる方法を示すしかない

 よって、
言葉で説明出来ない真理は、ある意味、理屈を超えているとも言えるが、それはただ単に、理屈以前に、言葉の持つ表現力の限界を超えているのである。

 そして、その言葉の限界は、味覚、聴覚、触覚、視覚、嗅覚、感情等に及ぶ。

 例えば、感情において
「嬉しい」と言葉で表現しても、その嬉しさの感情を正確に他人に伝えることは不可能であり、もし、「真理は理屈を超えている」と表現するのなら、これら味覚や感情等も同様に理屈を超えていると言える。

 よって、
真理だけが特別に理屈を超えた崇高な位置にあるわけではないのである。

 これが事実なのであるが、インチキ教団においては、
「言葉を超えている」、つまりは「理屈を超えている」と表現することも可能な真理があることを拡大解釈した上で、批判をかわす為のツールとして「真理は理屈を超えている」等という概念が使用されることになるのである。


 次に、この概念のヤバさの第二は、信者を
考えなくすることである。

 理屈を超えているのだから、いくら、頭で考えても無駄。与えられた結論を、検証はもちろんのこと、理解も無くして受け入れるしかない。理屈がなければ理解することなど不可能だからである。

 かくして、この「真理は理屈を超えている」という概念を刷り込まれた信者は、
理屈を、つまりは理解を捨て、無思考で「黒と言われれば、白いものでも黒」と受け入れる、教団の指示に従うだけのロボットと化して行くことになるのである。



4).魂のステージが低いと分からない

 こちらも、先の「真理は理屈を超えている」と同様で、その
延長線上にある概念であると言えよう。

  「魂のステージが低いと分からない」

 そう言っておけば、どんな批判も吹き飛ばすことができ、かつ、自分がより上位にいるような錯覚を与えてくれる言葉である。

 
「真理は理屈を超えたものなので、それを理解できるようになる為には、自らの魂のステージを上げるしかない」。そういう理屈である。

 実際のところ、釈迦が示した悟りを得る為の方法のように、魂のステージと言うか、修行が進まなければ、感得しえないものもある。

 しかし、この言葉は、教祖が書いた難解な文章をその一部でも分かった
つもりになれた者が使用することが多い。

 「難解」という時点でその文章は、その教祖自身が理解しているつもりなって書いただけで、実際は何も分かってはいないと言える。

 (3)で記載したように、その真理が言葉で表現できるものならば、理屈を使用して説明するだけの話で「難解」などには成り得ない。

 一方、言葉で表現できないものならば、おおよその感じを伝える為に文章化することはあっても、基本的には文章でその真理を伝えようとすること自体が間違いである。出来ることは、その真理を感得する為の道筋を説明することだけだからである。

 よって、
「真理を感得した!」と称する教祖が難解な文章でそれを伝えようとしているのなら、その教祖は「分かったつもりになっているだけ」と断じて間違いない。

 さらに、その教祖の難解な文章を読んで、
「全部は分からないが一部は分かる」とか「修行をつんで、かなり分かるようになって来ました」なんて言っている信者がいたら、それは魂のステージが上がったのではなく、単に「分かったつもりになっただけ」度が上がっただけなのである。



(5).お金を持っていることは罪

 「お金を持っていることは罪」として、お金を穢れや執着の象徴とし、一方で、そのお金を教団が使用することによって罪や穢れを浄化できると刷り込めば、当然、信者のお金はお布施として教団に向かうことになる。

 もちろん、お金に執着し過ぎることには問題があるのだが、逆に、
お金を罪や穢れとして忌避し過ぎるのもそれはそれで執着である

 インチキ教団は、このような概念で、執着のベクトルを変更したに過ぎないのである。





 以上、これまで見て来たような概念を刷り込むことにより、インチキ教祖・教団は信者たちを自分たちの都合の良い方向へと誘導しようとするものである。

 また、このような概念は、教団特有の主たる教えではない為、仮に脱退しても
「あの教団の教えだからウソ」等という認識を持つことが出来ずに、刷り込まれた状態が持続することが多い。

 そして、様々な宗教を渡り歩いている人は、別の教団に所属しても、
「そんなことでは私の信仰は揺るぎません!」等と率先して言い続けることになるのである。


 ※(その11)へ続く



2015.10.13新規

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