ティー チョーリョー ファイセイ シューフナウ ティエントゥー タタクリ。 ニッシェイ シューラウフォー サイティンエン クォアウ シーラウ ティーハウー。 シャウリューゥーティーマー ナウ サウシューリー ファウティーウーティアウ テンタイシャン シュリンクアラー。 シーシューラウサウティー ファウティーニューフー テンタイチギ。 ナウショウリャウファウサウ シューショーリュータウ クワンナウシアー。 シーシューラウ サイシンシューター テンタイシャン、スーラウティー ニャウルワントゥートゥ ファイサウシュー。 ナウリュー アウテンシューフーファウ サイシーシューリークー アンヌンラウティン サントゥークーフォー。
私はタタクリでございます。チベットのテーマという貧農の生まれで、口べらしの為にお寺に奉公に上がりました。私は初めは肉体行をいたしましたが、後に旅のお坊さんから中国は仏教が非常に盛んで、天台山という所には智様と申されるすばらしいお方がおられるという話を聞き、師を求めてはるばると中国へ参りました。そして法華経を学びました。天台智様は、汲めども尽きぬ智慧をお持ちになられ、あらゆる質問に対しても、明確にお答えになりました。そして非常に解りやすくお話しになられました。御自分の前にある茶わんを手に取られ、「この茶わんはお茶をついで飲むという目的と使命を持っているが、もしこの茶わんを手から離して落とした場合、これはこわれてしまう。茶わんとしての使命も目的も持っていない。ただの物である。そしてこの大地に還元され、また土となって、また茶わんとなって生まれることができる」このように大変にやさしくお話し下さいました。つまり物質と生命は一体であるという。そして物質つまりこの現象界、この世は物質の世界である。しかし、それに対して使命と目的を持っているその根本は、心である。色心不二である、このように私達は智様のもとで法華経を学んだのでございます。これは今も比叡山において、天台学式回答という一つの型式を持っております。これは特徴でございます。師と弟子が問答式に話し合うということでございます。「声聞」、声を聴くと書きます。これは仏の、つまり、お釈迦様のお教えを聞くという意味でございます。私がその当時唱えた経文の一部でございます。
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