私の邪念対処法(その11)
※当記事は(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)(その6)(その7)(その8)(その9)(その10)からの続き。


10.邪念対処法・実施スケジュール 

 これまで紹介した以下の三つの邪念対処法に「反省」の作業を含めた実施スケジュールについて解説する。

   ・丹田活性化法
   ・丹田観想法T
   ・邪念可視化排除法

 なお、
あくまで参考なので、このスケジュールが必須ではなく、自分がしっくりくるスケジュールで実施してもらって全く問題ないし、また、個別の対処法のみを行ってもらっても構わない。

 また、「反省」については、(その7)で述べた通り、
「客観性を高め、自己を律する力を手に入れる」為の訓練になるものであり、かつ、今後紹介する予定の対処法の前提となってくるものなので、出来れば実施して欲しい。

 ちなみに、「反省」八正道に当てはめると、
「己の考えや行動を振り返って、より正しいものを考える」という意味では正思惟に相当すると言える。


 それでは、参考スケジュールである。

(1).実施スケジュール
(1).朝(食事前)

@.丹田活性化法



(2).夜(就寝前)

@.丹田活性化法
A.反省 (※実施方法は後述)
B.丹田観想法T
C.邪念可視化排除法 (※必要に応じて適宜実施)
D.瞑想
※丹田活性化法は日に2回行うスケジュールにした。全体の流れ上、夜の丹田活性化法は立ってではなく結跏趺坐等で行う。

※邪念可視化排除法は、自分が必要だと思った時のみで可

※丹田観想法Tもしくは、邪念可視化排除法からそのまま瞑想へと入る。





(2).反省

@.実施方法

 朝起きてから現在までに起きたことを順に思い出しながら、必要な反省をして行く。

 思い出す際は、自分の行動を映像として再生するイメージで行う。そうすれば、後に実施する丹田観想法Tや邪念可視化排除法もやり易くなる。

 慣れれば、その日の反省すべき点のみをピックアップして実施しても可。


A.反省方法

 反省方法として、まずは悪い例から見てみよう。

 
「反省できない人」というものは世に掃いて捨てる程いるが、そのような人達は、次のテクニックによって反省すべきものを反省せずにやり過ごしてしまう。
@.自分が犯した過ちや間違いを、見ない(文字通り、目を背ける)

A.自分が犯した過ちや間違いを、過ちや間違いだと認めない(見るには見るが、正当化して否定してしまう)
 そもそも、自分の過ちを見ないし、見ても正当化してしまうから、自分の中で反省すべき対象として認識しないのである。
 そうして一方で、自分へのダメージが小さい過ちのみを反省して、
「自分は反省できる人間だ」と思って自己満足することになる。

 例えば、イジメを行う人というものは往々にして、イジメをしている事実そのものを見ない。仮に目を向けざるを得ない状況になったとしても
「イジメられて当然のヤツだ」「他の皆もやっている」等と正当化してしまう。
 そうして、イジメという過ちを反省せずに済ましてしまうことになる。

 また、例えば、インチキ予言者というのも同様で、
「ヘタな鉄砲数撃てば当たる」でタマタマ当たった予言のみを見て、「自分には予言能力がある」と思い込む。一方で、外した予言は無視するか、「予言することによって未来が変わったんだ」等と考えて外れたことを正当化する。
 そうやって、
「自分には予言能力などない」という事実から目を逸らして、反省することなく自分と他人を騙し続けることになる。


 このようにして、「反省できない人」というものは過ちの上に過ちを積み上げ、過ちだらけの人生を送ることになるのである。そんな人生を送らない為にも、我々は上記のような自己欺瞞のテクニックを用いずに、
「きちんと反省できる人」にならなければならない。
<参考>
  上記と同様の内容は、より詳細に次の記事で述べた。「反省」を行う前に一読しておいて欲しい。

  ○「反省できない人たち(その1)〜(その6)」



 そして、以上のような「反省できない人」を参考に、「反省」する際に留意すべき点を挙げれば次の通りである。
○目を背けない

 
人は無意識の内に、自分に都合の悪い情報からは目を背けてしまうものである。

 例えば、子供が友達の悪口を言っているのを聞いて
「他人の悪口を言ってはダメ」と叱る一方で、自分自身は近所の人の悪口を嬉々として言っているようなケースである。

 人はそのような矛盾した行動を平気ですることができる。都合の悪い情報は見ないから、自分の中ではそんな情報は存在しないことになっているからである。だからこそ、自分自身の矛盾を感じることもなく、平然としていられることになる。

 そして、
「自分に都合の悪い情報を見ない」のであれば、そもそも反省の対象になることもなく、結果、その行為が改善されることもない。

 
反省する為には、自分に都合の悪い情報にも、きちんと目を向けなければならない



○自分への精神的ダメージ、自尊心や欲の否定、そのようなものを恐れずにしなければならない。

 例えば、勘違いして「自分はこの世の人々を導く為に、正神界から転生して来ました」なんて宣言してしまったら、通常、その後にはもう、「ゴメン!実は、自分が霊能力だと思ってたものは、ただの妄想でした」なんて言えなくなる。

 自尊心、信者たちの期待への裏切り、
「特別な人間として称賛され、敬われたい」という。そのようなモノが正直に訂正するのを阻むことになるからだ。

 しかし、気づいた時点できちんと反省した上で人々に訂正しなければ、ウソの上にウソを塗り固める人生を送ってしまうことになる。

 そうならない為にも、精神的ダメージ等が大きい事柄に対しても誠実に向きあい反省しなければならない。

 そして、それが出来てこそ、本当の
「反省ができる人」だと言え、ホンモノの人生が送れると言えるだろう。



○自分を正当化するのではなく、否定する

 自分を正当化してしまえば、そこで終了となり、反省へとつながらない。

 よって、
反省する為には否定が基本となる。ただし、ネガティブに否定するのではなく、より高い次元の対処法等がないかを模索するようにする。

 「反省」
自分自身をよりレベルの高いものにする為のものなのである。(※具体例については、次に記載)

 なお、凝り固まった偏見や固定概念を取り去るには、
「一旦、逆を考えてみる癖」を付けるのが有効である。
・自分が正しいと思っている
実は、間違っているのでは?
・相手が悪いと思っている 実は、自分が悪いのでは?
・当たり前だと思っている  実は、当たり前ではないのでは? もしくは、当たり前でも、不条理なのでは?
・他人の為にやっていると思っている 実は、自分の為にやっているのでは?
・自分は出来ていると思っている。 実は、出来ていないのでは?
 このように、一旦、逆の立場に立って物事を考える癖を付けるようにすれば、偏ることのないバランスの良い考え方ができるようになる。

 ちなみに、
「逆の立場に立つ」ことが大切で、「自分が正しい」という立場のまま、一旦、「実は、自分が間違っているのでは?」と考えても、あまり意味がない。「自分が正しい」という結論ありきで考えてしまうからである。



○自分の欲や都合を離れて、多角的に考える

 例えば、
「電車を降りる際、自分が降りる前に人が乗って来てムカついた」というケースを考えてみよう。

 多くの人は次のように考えて終わりであろう。
ルールを守れない最低のヤツだ!
・(その人が若ければ)
親はどんなしつけ方をしたんだ!
・(その人が年を取っていれば)
いい年して、どんな人生を送って来たんだ!
 しかし、これでは自分の怒りを正当化しだけの話で、そこには何の進歩も発展もない。ただ、「自分の怒りを正当化したい」というに従って考えただけの話である。

 そこでまずは、自分の怒りを否定してみる。
確かにルールを守らなかったのは相手だが、こんな程度のことでムカつくなんて、自分もまだまだだな・・・
 次に、多角的に考え、多くの視点でも考えてみる。
<視点1・自分>
・こんな程度のことにいちいち腹を立てないようにするには、どうすれば良いだろうか

<視点2・相手>
・何か急ぐ理由があったのかも知れない。
・その人から私が目に入らなかったのかも知れない
・考え事をしていて、ドアが開いたので反射的に乗ってしまったのかも知れない
・ルールを守れない人を、守れる人に変えるにはどうすれば良いだろうか


<視点3・ルール>
・別に降りるのに支障があったわけじゃないから、頑なにルールに縛られる必要もないのでは?
・そもそもそんなルール必要なのだろうか。(※当然、降りる人を先に降ろしてから乗った方が効率的だが、考えてみる)

 このように、反省するには多角的な視点で物事を考える必要があり、より高次元の対処法等を考えることによって自分自身の成長へとつなげることが出来るのである。

 ちなみに、「怒り」というものは自分のと直結するものである。よって、「怒り」
というキーワードに着目して「反省」するのも非常に有用である。

 そうすることによって自分自身が意識していないを知ることになり、それは自分自身を知ることに繋がるからである。
<参考>
 「怒り」については、以下の記事に詳しく記載した。

  ○「目の中に梁が入っている人」の判別方法 〜怒り〜



 「反省」、特に最後の「自分の欲や都合を離れて、多角的に考える」は、自分自身の客観性を養うのに役立つことになる。

 逆に言えば、
「客観性がない人」というものは、自分の欲や都合に捕らわれていたり、視野が狭いから客観性がないのである。

 例えば、
「自分の子供を一流大学に進学させて、親戚や近所の人に自慢したい、優越感にひたりたい」というを持っている人は、
学歴社会だから、一流大学に進学させることが、この子の幸せに繋がる
と考えて、自分のを正当化して終わり。

 何故、そこで思考が終了になるかと言うと、自分のを正当化する為に考え、その目的を果たしたので、その人にとってはそれ以上考える必要がないからだ。あとは、の実現の為にまい進するのみである。

 これが、自分の都合に捕らわれて、客観的に物事を考えることのできない人の考え方であり、当然、次のような視野の広い、多角的な考え方はできないのである。
本当に、一流大学に進学させることが、この子の幸せに繋がると言えるのだろうか?

・人それぞれ個性があるし、子供のやりたいことは子供自身に見つけさせて、自分はそれを精一杯フォローするだけでもいいのでは?

・試験に合格する為の勉強も不要だと思わないが、人生において役立つことも一杯教えてあげた方が良いのではないだろうか?

・決められたレールに乗って生きることを強いるより、多少、一般のレールから外れても臨機応変にたくましく生きることのできる力を身に付けるよう育てた方が良いのではないだろうか?

・一流大学に進学させたいのは、自分であって子供本人じゃない。これは、子供の人格を無視して自分の人格の一部として扱ってしまっているのではないだろうか?


<参考>
 で目が曇った人については、以下の記事に詳しく記載した。

  ○「目の中の梁 〜「欲」によって自らの目を曇らせる人達〜






 以上で、私の邪念対処法の説明は終了である。

 なお、別記事として、実践結果のご報告の依頼を掲載する予定である。



2015.04.10新規

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