主観と客観(その12) |
※当記事は(その1)、(その2)、(その3)、(その4)、(その5)、(その6)、(その7)、(その8)、(その9)、(その10)、(その11)からの続き。
最後に、客観的に考えることの出来るようになる為の方法について記載して終わりとしたい。
9.客観的に考えることのできる人間になるには
(1).自分の欲をコントロールする
これまで述べて来た通り、客観で考える場で主観で考えるのは、自分の欲や都合をゴリ押ししたいからであり、さらにその根底にあるのは快・不快である。
よって、客観的に考えることの出来ない人は、そもそも論として、自己の欲、つまり、快・不快に振り回されていて、コントロール出来ていないのである。
釈迦いわく、
『ダンマパダ 一○三』
戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つ自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
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自己に克つこと、それは、自己の欲に克つことであり、欲をコントロール出来るようになることに他ならない。
『ダンマパダ 一六〇』
自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
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他人が自分の主でないことはもちろん、自分の欲に振り回され、それに従っている人間は、欲が自分の主となってしまっている。
欲に手綱を握られてしまうのではなく、自分が欲の手綱を握って制御する。それが、「自己をよくととのえた」状態であり、「自己こそが自分の主」となった状態なのである。
ただ、気をつけなればならないのは、欲が自分の主となっている人は、「自分は、自分の欲をコントロール出来ていると思いたい」という欲でもって、自分自身を歪めて把握し、「ああ、自分はちゃんと欲をコントール出来ている」と自己欺瞞をしてしまうことだ。
これまで述べて来た通り、欲は自分の思考さえも歪め、客観的に考えることが出来なくする。
客観的に考えることが出来るようになる為には、自分の欲をコントロール出来るようになることが第一歩なのである。
とは言っても、完全に自分の欲をコントロール出来るのなら、それはもう「解脱した」と言ってもいいレベルであろう。
程度の問題であり、如何に、快・不快に捕らわれず、清々と生きていけるか。一生かけて練磨して行くものであると思う。
(2).客観を取り入れる
中には、「客観的に考える?第三者の立場に立って考えることでしょ?簡単じゃん、出来るよ」なんて軽く考えている人もいるかも知れないが、そうではない。
(その10)で記載したように、客観は取り入れて行かなければならないものである。よって、客観的に考えることの出来る人間になる為には、出来るだけ多くの客観を取り入れ、自分の客観性を育てて行かなければならない。
それには、多くの意見や考えに接することである。
基本的には、他人と意見を交わしたり、本を読んだりすることになるが、より簡単で手っ取り早く、オススメなのは、まとめサイト(2ちゃん等の掲示板のスレッドをまとめたサイト)を見ることである。
まとめサイトでは、例えば、不祥事を起こした企業や著名人等の謝罪文に対して様々なツッコミ、または称賛のスレッドがまとめられていたりする。
問題を起こしておいて、「こんな程度でガタガタ騒ぐなよ。うっせーんだよ」という気持ちで渋々出した謝罪文は、当然、ツッコまれまくりである。
そこでは、謝罪文を読んでも自分ではスルーしてしまった箇所にツッコミが入れられていたり、「そんなツッコミの入れようがあるんだ」と唸らされたりすることもある。(もちろん、どうしようもない批判や擁護もあったりもするのだが)
一方、誠意が感じ取れる謝罪文ならば、むしろ、問題を帳消しにする程の好感をもたれたりする。
また、Twitter等に飲酒運転、キセル等の行為や、また、その他、おバカな発言等の投稿をして炎上し、それに対する批判がまとめられていたりもする。
これらを見ることで分かることは、
○どのような言動をすれば、問題とされるのか
○問題を起こした時の対処法(特に謝罪の言葉・文章)
○おかしな発言の、どこがどうおかしいのか
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などである。
世間の常識を知ることができるし、誤った考え方・論述なども知ることができるわけである。
もちろん、まとめられている全てのコメントが正しいわけではないので、「なるほど」と思う点は取り込めばいいし、「それは違うだろ」と思う点は、「こんな、おかしな批判をする人もいるんだ」と参考にすればいい。
そうすれば、自分の考える力の向上にも役立つことになるだろう。
また、客観を育てて行く上でやるべきでないことは、特定の集団内の客観しか取り入れないことである。特定の集団とは、例えば、宗教団体や思想・主義の団体等である。
そのような集団内では、世間の常識とは異なる常識(=非常識)が形成されていることが多い。
具体例を示せば、幸福の科学では、大川隆法主宰の元嫁が週刊誌に様々な暴露をしたが、それに対する批判の中で、広報局長が元嫁の前世が以下の通りであることが明らかになったと述べている。
× 文殊菩薩、アフロディーテ、ナイチンゲール
○ キリストを裏切ったイスカリオテのユダ
前世が変更になるなど、信者以外から見れば失笑モノに過ぎない。しかし、このような情報を平然と記事にできるのは、広報局長、及び、それを受け入れる信者たちが世間の常識とは異なる常識(=非常識)を共有しているからなのである。
※詳細は以下の記事を参照
また、宗教団体や思想・主義団体等の場合、道理から外れた主張を固守する為、偽客観で正当化している場合が多い。
そのような団体では、構成員は「偽客観を取り入れた人」ばかりで、偽客観が蔓延している。
そして、周りが偽客観だらけなので、「そこに所属すると偽客観に染まる」というケースも多いので気を付けて欲しい。
(3).多角的に考えるクセを付ける
人は、自分の欲を正当化する為に考え、正当化できたと思ったら、思考を終了してしまうものである。
そして、それは、自分の欲の為に考えた、つまり、主観で考えたに過ぎない。
よって、一旦、正当化できてもそこで思考を終了せず、より深く考え、思考を深化する必要がある。
それには、自分が一旦、正当化したことを、今度は否定的に考えみることが有効である。
自分が最初に考えた時は、自分の欲を正当化する為の根拠のみを探したはずである。そして、今度は、自分の欲を否定する為の根拠を探してみるのである。
(その4)で使用した例では、違法駐輪で注意されたAさんは、「自分の違法駐輪を正当化し、注意したおじさんを悪モノにする為」にのみ考えた。
普通は、思考はそれで終わりであるが、それでは、主観で考えたに過ぎない。
そして、そこで終わらずに、今度は、「自分の違法駐輪を否定し、注意したおじさんを善いモノにする為」に考えるのである。
このように真逆の立場に立って考えた後、それぞれの根拠を並べて見くらべると、より客観的な結論を導き出せることになる。
このような考え方は、多角的な考え方と言っていいだろう。「客観的に考える」とは、より広い視野で多角的な視点から考え、結論を出すことなのである。
一方、主観的とは、自分の欲という狭い視野で近視眼的に考え、結論を出すことである。
客観的に考えられる人間になるには、自分の欲を正当化するだけで終わらず、より広く、多角的に考えるクセを付ける必要があるのである。
そして、それには、逆に考えてみること、つまり、「正当化する為に考えたなら、今度は否定する為に考える。都合の悪いものを否定する為に考えたなら、今度は肯定する為に考える」、それが有効である。
<参考>
「逆に考える」、「多角的に考える」の具体例は以下のブログ記事の方に記載してあるので、興味ある方は参照されたい。
○ブログ記事「9.目の曇りを晴らす為に(その3)」 (1).様々な視点で考える
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以上、(その12)にまで渡り、主観と客観について述べて来た。
「客観的に考えることができない」
それは、自分の欲に振り回されているだけで、かつ、正しい答えを導き出すことが出来ないことを意味する。
それでは、「脳内に誤った答えばかりを蓄積して、誤った判断を繰り返し続ける」という愚かな人生をまい進するしかない。
「客観的に考えることができない」ことは、「まともに考えることができない」ことと同義だからである。
2017.02.07新規
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