悟りと魔境(その13)
(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)(その6)(その7)(その8)(その9)(その10)(その11)(その12)からの続き


 当記事では、魔境へと至る瞑想・修行以外のケースとして、臨死体験を見て行きたい。



6.魔境へと至る瞑想・修行以外のケース

(5).臨死体験

 2014年9月14日、NHKで「臨死体験 立花隆思索ドキュメント」という番組が放送されていたが、番組の中で
複数の臨死体験者が語っていたものが次のものである。

 なお、下記は全て欧米人(主にアメリカ人?)のみの証言で日本人の証言は含まれていない。
○その時、私の心は身体を抜け出し、手術室の上の方へと上がっていきました。
○私は神秘的な存在に導かれ、
宇宙のような空間に行きました。そこで突然、光に包まれたのです。
○私は自分の
身体を離れて浮き上がるのを感じました。そして、天井の隅に行きぐったりした自分の身体を上から見下ろしたのです。
○そこには無限の愛と平和がありました。それまで感じたことがないほどの愛が私を包み、私は自分の欠点を全て許すことができました。それは人生を生きる上で最も大事なことになりました。
○私は
光に向かって進みました。そして開いているドアを通りなさいと言われ、外にたどりつき、残りの人生を生きるようになったのです。
 幽体離脱したり、宇宙へ行ったり、また、光に包まれたりと、もう既にお気付きだと思うが、その体験は、これまで見てきた魔境での体験と同種のもの。違いと言えば、次の2点ぐらいであろう。
@.意図せず極限状態に追い込まれて体験するか、自らの意思で自らを極限状態に追い込んで体験するか。
A.死を意識しているか否か(当然、臨死体験の方がはるかに強く死を意識している)
 間違いなく魔境での体験と臨死体験は同じ現象。同じ現象だからこそ、似た体験になるのである。

 ただ、臨死体験の方が死を強く意識している分、その意識が影響を与えることになり、体験としては魔境とは異なる特徴を持つことになる。

 また、次の内容は、当番組において臨死体験の典型的な特徴がまとめられたものである。
@.自らの心が身体を抜け出すのを感じる。
A.その後、トンネルのような所を通って、光輝く美しい世界へと導かれる。
B.親しい家族や友人に会い、人生を全うせよと言われる。
C.全知全能の大いなる存在に会い、幸福な気持ちに満たされる。
 Aの「トンネルのような所を通って」別世界へ行く話は、これまで見てきた魔境の体験ではなかったが、「生と死」という二つの世界に精神的に大きな隔たりを感じている為に、双方の世界の境にトンネルというイメージを作り出すことになったのであろう。

 また、Bの「親しい家族や友人に会い、人生を全うせよと言われる」というのは、死を意識していたからこそだと言えるものである。


 上述の臨死体験は欧米人のものばかりなので、続いて、日本人のケースも見てみよう。

 当番組のメインキャストである立花隆氏の著書『臨死体験 上』には、氏自身が収集した日本人の臨死体験が多く掲載されている。次はその一部の要約である。
『臨死体験 上』(立花隆/文春文庫/2000.3) ※要約
<大平満さん> 16年前 (P.14-15)
いきなり
が出て来て、水に入って泳いで向こう岸に渡ると、写真でしか見たことがない先代がいて、「お前はまだ来るな」と言われる。

<同上> 16年前  (P.17-18)
小高い丘のようなものがあって
一面ずっーと花が咲いている。丘の上にギリシアの神殿風の大きな建物があって、中に入ると虹みたいな光でいっぱいで、その光はとても心地よい。建物の中には赤ちゃんが寝ているベッドがいっぱい並んでいて、子守りをしている女の人の一人から「あなたはここから出ていった人なんだから、ここに戻ってきてはいけない」と言われる。


<浜田晶子さん> 
1969年頃 (P.21)
空中に浮かんで寝ている自分を見下ろしている。下の自分の額のまん中あたりから、くもの糸のような細い糸でつながっていた。

<O・Mさん> いつ頃か記載無 (P.22-23)
大きな深い穴の中にいて、上の方は木の根がいっぱい垂れさがっている。穴の上に真っ白な服を着た白髪のおばあさんがいて、上がってこいと言われる。

<山折哲雄さん(宗教学者)> いつ頃か記載無。ただし、
学者になった後 (P.24-25)
体がふわっと浮き上がるような浮揚感を感じる。すると、目の前に光り輝く虹のような
光が広がって自分を包み、そのまま浮き上がりながら、「このまま死んで行けるなら楽だな」と思う。

<志賀信夫さん(テレビ評論家)> 
一年半前 (P25)
七色の鮮やかな色彩の
光の中に飛び込んでいった


※「○○年前」というのは、立花隆氏が話を聞いた時より。
 上記は本人が体験したものだが、続いて、臨終時体験と言われる、死から生還するのではなく、亡くなってしまう際の体験である。当然、亡くなった本人からその体験を聞けるはずもないので、死の間際に発した言葉を周りにいる人が聞いたものになる。
『臨死体験 上』(立花隆/文春文庫/2000.3) ※要約
<杉本房江さん(47才)> 中学生の時(※31-33年前か) (P.35-36)
祖母が亡くなる時、親族が「おばあちゃん、しっかりするのよ」と声をかけていると、祖母が目を開けて、「もう呼ばないでおくれ。白い蝶がたくさん飛んでいて、
花もたくさん咲いている。そこへ行こうとすると、お前たちが呼ぶから、また戻ってきてしまった。もう呼ばないでくれ」と息もたえだえに言い、まもなく臨終になった。

<T・Iさん> 
58年前 (P.36-37)
熱心なクリスチャンの兄が亡くなる間際、祈りを始め、「ああ、だんだん上へ昇って行く。
川原が見える。いや、野球場だ。皆元気に野球をしている。ああ、今度はお花畑が見える。きれいだ。本当にきれいだ。」と繰り返し、声がしなくなったと思ったら亡くなっていた。

<S・Mさん> 姉が6才の時 (P.37)
6才の姉が病死する際、「オ母チャン、捕マエテイテ、
ヘオチル、捕マエテイテ!」と言って亡くなった。

<U・Tさん> 
1945年 (P.37)
兄が臨終間際、「
広い野原と河、そしてその橋のたもとに白い衣服をまとった白いひげの老人がいて、この橋を渡るな、渡ると帰ってこれなくなると言われ、急に母に逢いたくなって帰ってきた」と言っていたが、その後、息を引き取った。

<小野寺千寿子さん> 
34年前 (P.37)
父が死の間際に、「今とてもきれいな
花畑が見える。があって、舟が待っているんだよ。そして誰々(身内の人)が迎えにきているんだよ。」と言った。
 こうやって、日本の臨死体験を見てみると、最初に記載したNHKの番組の臨死体験(欧米人のもの)と比べ次のような特徴を持っていることが分かる(※あくまで上記10件という少ない事例の中での比較だが)。
@.お花畑と川が多い。そして、その傾向は古いものほど強い。

A.光に包まれる体験は少なく、その体験は比較的新しいもの。

B.穴へ落ちる、落ちているバージョンもある。

C.全知全能の大いなる存在が出て来ない。
 まず、@であるが、「お花畑と三途の川」と言えば、日本人としては定番の臨死体験だと言えるだろう。定番と言えるほどに日本人に浸透しているので、当然、臨死体験時にその体験をする人も多いのである。

 続いて、Aを飛ばしてBのであるが、おそらく、死に対するネガティブなイメージがとして現れたのではないかと思われる。そして、そこには日本神話の死者の国、例えば、大国主命が行った
「根の堅洲国」の地下の暗いイメージの影響があるのかも知れない。

 最後に、残りのAの関連とCの全知全能の存在であるが、それらが欧米人に多く見られるのはキリスト教の影響によるものであろう。

 日本において「神」と言えば、別に全知全能でなくても構わず、欧米の天使や精霊レベルでも「神」と称されることになるが、欧米で「神」といえば「GOD」で、唯一の全知全能の存在である。Cは、そんな「神」観が影響を与えた結果であろう。

 また、関連でいえば、『キリスト教シンボル事典』には、について次のように説明されている。
『キリスト教シンボル事典』 (ミシェル・フィエ/文庫クセジュ/2006.10) 「光」
聖書の伝統では、神は光である(詩27:1、イザ60:19‐20)。とはいえ、光が神格化されることはない。光と闇を分けたのは神なのである(創1:4‐5)。キリストは世の光である(ヨハ8:12、9:5)。律法の光(詩119:105)に代わって、メシアの光が人間を照らす(ルカ2:32)。それゆえ、人間のほうでも、神の光の反照とならねばならない(Uコリ4:6)。神の光は愛の光である(Tヨハ2:8‐12)。救いへの歩みは闇との戦いであり、人間がその闇を霊の光へもたらすのである。
 このような「」観が影響を与えた結果、欧米人の臨死体験には関連が多く登場することになったのだろう。

 なお、先述の通り、欧米人の臨死体験の典型として「トンネル」が上げられていたが、暗いトンネルの出口には当然、が見えるものであり、「トンネル」と対となることによって「」が登場することが多くなった可能性もあると思われる。

 さらに、欧米人、特にアメリカ人の臨死体験に影響を与えていると思われるのが、1970年代後半から1980年代にアメリカで盛り上がりを見せたニューエイジ運動の影響である。

 ニューエイジでは、特定の宗教にこだわらず、汎神論的で宇宙神的存在への信仰が見られるが、その神は、既存宗教のような人の形をとらず、単に「意志」とされたり、光の存在とされることが多い。
<参考>
○Wikipedia(ニューエイジ
 そのような背景があるので、欧米では、光に包まれたり、全知全能の大いなる存在に遭遇する臨死体験が多いものになったのであろう。

 そして、そのようなアメリカでのニューエイジ運動が日本の新興宗教やスピ系に影響を与えた結果、日本でも近年、光に包まれる体験が散見されるようになったのではないかと思われる。

 ちなみに、上述のNHKの番組のように、光に包まれる体験がオーソドックスな臨死体験として紹介されることにより、それが日本でも広まって、今後、同様の体験は増えて行くことになると思われる。




 以上、臨死体験は、地域によって異なる傾向を持つものであり、それは、それぞれの地域の死生観・宗教観が影響を与えるからである。

 結局のところ、やはり、
臨死体験は、今まで見てきた魔境と基本的に同じものであり、個人が持っている我欲や執着、固定観念等が元となっているのである。



 続いて、(その14)では、魔境に至り、それを魔境だと気付けない人に不足しているものについて見て行きたい。




<参考>

 上記の
「臨死体験は、地域によって異なる傾向を持つ」という結論の補足として、アメリカでなされた臨死体験の医学的研究結果を掲載しておきたい。

 医学博士のマイクル・B・セイボムが行った臨死体験に関する研究が『「あの世」からの帰還』という書籍にまとめられており、そこには臨死体験時に行った世界が次のように記載されている。

 なお、研究対象は全てアメリカ人であり、また、当書籍のアメリカでの発行が1982年であるから、それ以前の臨死体験と言うことになる。
『「あの世」からの帰還』 (マイクル・B・セイボム/日本教文社/1986.5) P.340

表12 超俗的世界の描写
インタビュー
番号
描写
2 「古い農場の」で行き止まりになっている「道」
4 ・・・薄い灰色をした雲」
8 ところどころに「」が浮かんでいる「濃い青」の空
9 花壇に生えている「美しい花」
15 「天国の黄金の」につづいている「階段
16 「丘や林や鼻」がある美しい「公園」
17 「まさにあの世・・・輝くばかりの明るい世界・・・本当の美しさ」
18 「向こう側に虹の色」が見える「ゆるやかな流れ」
24 「美しい青空・・・いろいろな色をした花が咲いている野原
25 「世界が割れた」――何もかもが「銀色で、・・・ダイヤモンドや星みたい」であった
27 「すっかり晴れ渡ったきれいな夏の日に・・・の上を歩いている
34 「美しい夕焼け・・・金でできているような木」に囲まれている「水」
35 「本当にすばらしい音楽に合わせて美しい光が脈打っているところ」
36
37 そよ風に吹かれている「霞」
41 「すっかり明るくなった長い階段
43 「向こう側に人」がいる「天国の
44 「光って見えた・・・黒い
47 「すごくごつごつしたところ」と「最高にきれいな牧場の風景」を隔てている「柵」
52 「全員がそれぞれ違う国籍の・・・全員が芸術作品や工芸品をつくっている」人たちがいっぱいの風景
53 その時には閉じていた「黄金の
54 「山の頂上・・・上ではとにかく美しかった・・・天上の美しさ」
57 「あらゆる種類の花や木、美しいお花畑、太陽が美しかった・・・素晴らしい幸せ」
60 「まわり中が明るい・・・
61 「大きくうねっている、綿のような雲・・・かなり磨き込んだ金色の・・・錬鉄でできている、金の飾りのついた
62 「美しい木」のたもと、「ガリラヤ湖」のほとり
65 「言葉で表現できない」・・・美しい「パノラマ」
66 「きれいで青々とした牧場・・・牛が草をはんでいる・・・明るい天気のいい日」

 ざっと概観してみると、一番多いのがで、続いて。日本で定番のお花畑も少し見える。

 この内容から分かることは、やはり、
キリスト教の影響を強く受けているということである。、そして、2件見える階段は、明らかにキリスト教の世界観のものである。

 から順に、キリスト教における位置づけを見て行こう。次のものは、『キリスト教シンボル事典』でのの説明である。
『キリスト教シンボル事典』 (ミシェル・フィエ/文庫クセジュ/2006.10) 「雲」
空にあって、明るくも暗くもあり、近づきがたく、漠としてとらえがたい雲は、目に見えずに編在する神の表徴である。聖書によれば、神は、黒く光輝く巨大な円柱のような密雲となって、顕現する
 少し補足しておくと、神がとなって現れたシーンとして例えば、次のものがある。
○モーセが幕屋に入る時には、いつも雲の柱が下り、幕屋の入り口に立ってモーセと語る。(『出エジプト記』33章9節)

○イエスがペトロ、ヤコブとヨハネを連れて高い山に登った際、イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。モーセとエリヤが現れ、イエスと語らっていると、光り輝く雲が彼らを覆い、その雲の中から、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という声が聞こえる。(『マタイの福音書』17章1-8節)
 また他にも、再臨のキリストがの上に座って現れるシーンもある(『ヨハネの黙示録』14章14節)。

 続いて、である。
『キリスト教シンボル事典』 (ミシェル・フィエ/文庫クセジュ/2006.10) 「門」
@開いているにせよ、閉じているにせよ、門は他の場所への通過点である(通れる場合もあれば、通れない場合もある)。究極の門は天の門であり、それを越えれば、人間は「いと高き方」と親密な関係を結ぶことができる。 〜(中略)〜 そればかりか、キリストは自分自身が門なのだと言う――「私を通って入る者は救われる」(ヨハ10:9)。キリストであるこの門とは、父の家に入る門である。 〜(中略)〜 神に見離された者たちには、もうひとつの門が用意されている。それは地獄の門であり、その鍵はキリストが握っている(マタ16:18、黙3:7)。 〜(後略)〜
 そして、最後に階段である。
『キリスト教シンボル事典』 (ミシェル・フィエ/文庫クセジュ/2006.10) 「階段」
@梯子と同様、階段は天への上昇を表わす。 〜(後略)〜
 なお、イスラエル人の祖先の一人であるヤコブは、天使が昇り降りしている梯子(階段ともされる)を夢で見るが(『創世記』28章10-12節)、その梯子は天と地をつなぐものであり、そのシーンは西洋の宗教画のモチーフの一つである。
ブレーク [ヤコブの夢] 1805年頃

 以上、キリスト教国であるアメリカ人の臨死体験は、当然ながらキリスト教の影響を大きく受けており、その分、日本人の臨死体験とは異なる特色を持っているのである。



2014.11.18新規

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